防御についての備忘録(1)

 続くかどうかは、本人にも分かりません。
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名無し整備兵 @seibihei

さて、ぢべた系厨房意見。今日のは高坊程度にはなるかも

2010-08-17 00:28:06
名無し整備兵 @seibihei

何で今やるかと言っても理由は無い。先週から引っ張っているのが申し訳ないので、「やるやる詐欺」とか「藍○り青し」とか言われる前にやる

2010-08-17 00:30:13
名無し整備兵 @seibihei

さて、防御。防御とはなんぞやといえば、待ち受けの利と事前の準備を活かして、敵の攻撃を破砕する事

2010-08-17 00:33:39
名無し整備兵 @seibihei

「敵の攻撃を破砕」というからには、敵が攻撃してこないなら防御は成立しない。

2010-08-17 00:34:55
名無し整備兵 @seibihei

逆に、攻撃してこない敵を積極的にやっつけることもない。このため、「決定的な成果」を得られない可能性は常に付きまとう

2010-08-17 00:36:24
名無し整備兵 @seibihei

一方、防御は攻撃より強力な戦闘の形態である。これは、野戦築城が常態となり、また「発見されたものは撃破される」精密な火力が出現し進化している現在においては無視できない

2010-08-17 00:38:57
名無し整備兵 @seibihei

しかし決定的な成果は必ずしも得られず、また「戦闘の時期と場所」を選択する主動性は通常攻者が保有するため、防御戦闘が受動に陥る危険性は常にある

2010-08-17 00:41:17
名無し整備兵 @seibihei

もちろん我の欲する「戦闘の時期と場所」に攻者を誘い込むような手段が取れれば、そのような主動的な防御は成功する可能性が高いであろう

2010-08-17 00:43:04
名無し整備兵 @seibihei

とはいえ、それであっても「攻撃を中止した敵」を撃滅するのは、防御のみでは不可能。そのような敵に攻撃を仕掛け撃滅するのでなければ、せいぜいにらみ合って拘束するのが限界だろう、に修正

2010-08-17 00:46:41
名無し整備兵 @seibihei

拘束するとしても、「敵が弱みを見せたらこちらから攻撃」できる能力がない限り、敵の転進を妨害することはできない。またにらみ合ったところで、時間の経過が我に有利なものでなければ、破滅を先延ばしするだけの事

2010-08-17 00:49:42
名無し整備兵 @seibihei

一般的なことはここまで。歴史的には防御とはどのようなものだったか

2010-08-17 00:51:19
名無し整備兵 @seibihei

孫子の時代。原本の「孫子」に近いとされる銀雀山出土の木簡では、「攻むれば則ち足らず、守れば則ち余り有り」とある。

2010-08-17 00:58:26
名無し整備兵 @seibihei

魏武侯曹操以来現在に伝わる「孫子」ではこれは逆で、「守れば則ち足らず、攻むれば則ち余り有り」となっている。

2010-08-17 01:00:55
名無し整備兵 @seibihei

いずれもこれに先行する部分はほぼ同じで、「勝つべからざるは守るなり、勝つべきは攻むるなり」となっている。

2010-08-17 01:02:22
名無し整備兵 @seibihei

解釈はいろいろあるものの、桑田悦元陸将は「攻防の論理」で「守とはどこから攻められても万全の対策をとった状態を意味したが、後世では防御の意味になったため、解釈が違ってきた」とする井門氏の解釈を支持している

2010-08-17 01:05:32
名無し整備兵 @seibihei

「どこから攻められても万全な対策を取った状態」とは、陣前出撃を含めた積極的防御であり、クラウゼヴィッツのいう防御のイメージにやや似ている

2010-08-17 01:07:30
名無し整備兵 @seibihei

この当時の戦闘についても考える必要があるだろう。攻城戦はともかく、野戦での防御とはどんなものであったか

2010-08-17 01:11:48
名無し整備兵 @seibihei

春秋時代の野戦といえば、「どこそこで戦おう」と約を交わし、そこで戦うのが礼とされていた。もちろん礼なんて破られるためにあるのだが

2010-08-17 01:14:50
名無し整備兵 @seibihei

「三舎を避く」なんて礼を守ったように見せかけて我の企図した決戦場に誘い込んだこともある。これも広い意味での「守」だったのだろう

2010-08-17 01:16:35
名無し整備兵 @seibihei

さて、「守」の態勢にある野戦軍はどうするのか。敵が攻め寄せてくるのを視界に捕らえ、投射兵器で勢力を漸減させて、ある時期に達したら味方の近接戦闘部隊が迎え撃つために前進したのだろう

2010-08-17 01:19:34
名無し整備兵 @seibihei

これは、兵士達が持っている兵器が進歩していっても、基本的に変わらなかった。「野砲の支援の下、塹壕から狙い撃ち」の方が致命的になったのは、基本的には最近の2世紀ほどの事に過ぎない

2010-08-17 01:24:13
名無し整備兵 @seibihei

とはいえ、やはり地形を知悉した待ち受けの利と、敵の投射兵器からの防護、さらに恐らくは継続した敵情監視の容易さは、戦術的防御の有効性を保障していた。

2010-08-17 01:30:49
名無し整備兵 @seibihei

ところが、孫「月賓」の時代には、銀雀山出土の木簡によればだが、攻撃が有利とされるようになっていた

2010-08-17 01:31:47
名無し整備兵 @seibihei

上記桑田氏の書によれば、それは戦争が戦術だけで終わらなくなったためと解釈する。かつて王侯貴族だけで戦っていたときには、戦術次元以上の戦いは物理的に不可能だった

2010-08-17 01:34:19
名無し整備兵 @seibihei

ところが庶民を動員しての歩兵が一般的になり、戦争の規模が大きくなると、「あの戦場で負けたから戦争負け」というような聞き分けのいい君主はいなくなった

2010-08-17 01:35:46