防御についての備忘録(1)

 続くかどうかは、本人にも分かりません。
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名無し整備兵 @seibihei

他ならぬ孫武が仕えた呉王闔閭・夫差にしてからが、越王勾銭と親子二代にわたる長期抗争を繰り広げたではないか。時代が下るにつれ、仁義よりもレアルポリティークが支配するようになった。だから今読んでも面白いんだけどね

2010-08-17 01:41:43
名無し整備兵 @seibihei

「囲魏救趙」は三十六計の一つとされ、今でも故事成語として中国ではよく使われる。孫「月賓」が指導したとされるこの戦いは、「趙を救う」という防御的な目的でありながら、手段は防御ではなかった

2010-08-17 01:44:41
名無し整備兵 @seibihei

後世伝えられるところによれば、孫「月賓」は魏に攻められた趙を救うため、魏の首都を急襲すると見せかけ、慌てて戻ってきた趙軍を撃破したとされる。ここには主動の地位を奪回するための鍵がある

2010-08-17 01:48:24
名無し整備兵 @seibihei

銀雀山出土の木簡では、また別のストーリーがある。ただ双方に共通するのは、敵地侵攻という攻撃と、戻ってきた敵軍を迎え撃つという防御の組み合わせである

2010-08-17 01:50:02
名無し整備兵 @seibihei

現代の用語を使うのであれば、「戦略的攻勢と戦術的防御」の組み合わせとなるだろう。馬陵でライバル「ホウ涓」を葬った孫「月賓」は、戦略的攻勢の利点も戦術的防御の利点もよく知っていた

2010-08-17 01:54:52
名無し整備兵 @seibihei

時代は下り、魏武侯曹操は「守れば則ち足らず、攻むれば則ち余り有り」に「勢力が足りないから守り、勢力があるから攻める」とごく常識的な注釈をつけている

2010-08-17 01:59:14
名無し整備兵 @seibihei

現代人の目からすると、袁紹の前に圧倒的劣勢だった状況を、烏巣の急襲と官渡の戦いでひっくり返した事の方が、よほど注釈として相応しいと思う。

2010-08-17 02:03:38
名無し整備兵 @seibihei

ただ、これは孫「月賓」とは逆で、「戦略的防勢における戦術的攻撃」というべきだろうか

2010-08-17 02:06:10
名無し整備兵 @seibihei

その後の中国の兵書で「戦略」と「戦術」の区別を明確にしたものは、寡聞にして知らない。「君主が考えるべきこと」と「武将が考えるべきこと」は区別されていたのだろうけれど

2010-08-17 02:15:25
名無し整備兵 @seibihei

恐らく、中国は文武の分離が早すぎたのだろう。明日以降は、文武の分離がろくにできていなかった、野蛮な欧州に舞台を移す。

2010-08-17 02:18:32