@chanohito ぶっちゃけると、昌幸と信之が袂を分かったのは、家名存続のため、ではなく、たまたまそうなったというだけですねw
2013-01-01 22:04:32@1059kanri 赦免されなかったのは信用度ゼロだったからなんだろうなぁ。「赦免?お前何言ってるの?」みたいな
2013-01-01 22:06:37@1059kanri 新年初笑いを、まさか昌幸に持っていかれるとは…時をかける真田の謀略、恐るべし!
2013-01-01 22:15:12@1059kanri 政宗で1年、権現様で1年、太閤様で1年、他のDQNで1年、鮭様と真田一家で合計1年、あと残りで数年できそうなw
2013-01-01 22:51:18永禄11年(1568)12月13日の、武田信玄による第一次駿河侵攻によって首府駿府は陥落。この時北条氏康が激怒したのは、信玄の三国同盟破棄の軍事行動以上に、今川氏真の正妻である、愛娘早川殿が裸足で避難させられたことであった。これ以後氏康は生涯信玄を許さないのである。 氏康豆知識
2013-01-02 11:37:33@1059kanri @shoukoyoshihiro 明けましておめでとうございます。信玄なりの覚悟の現れではないのですかね。北条に対しての最後通牒のようなものかと。
2013-01-02 12:05:06@UJIYASUKYOU おめでとうございます!信玄という人がはっきりした最後通牒を見せるような、そんなわかりやすい人だったらあのへんの戦国史ももうちょっとすっきりした気もしますw
2013-01-02 12:25:32@1059kanri そうなんですよねー、だから、逆に不思議なんですよ。あんなエゲツない事をするのが信玄らしくなくて・・・どう考えてもあんなことすればメンツ丸つぶれの北条が介入するのは見え見えなわけで、もう少し北条に対しては介入させないような対応があったんじゃないかと思うのです
2013-01-02 12:29:22自分を山内上杉家宰に任命しなかった、関東管領・上杉顕定に対し、長尾景春の乱を起こしその後も、文字通り生涯にわたって取り憑くように嫌がらせをし続けた(顕定の弟の越後守護房能が長尾為景に殺された弔い合戦に向かった時も当然のように妨害)という関係性はもっと萌えを感じていいような気もした
2013-01-02 12:41:48長尾景春の挙兵については、自分が関東管領になろうとした下克上だとか、山内上杉の構造だとかいろいろな理由が言われていますが、、一義的には「俺を認めない上杉顕定は死んでも許さん!」だったのではないだろうか。そして最後まで景春と和解しようともしなかった上杉顕定も同類w
2013-01-02 12:45:16