アートシーン(2013年上半期)

2013年1月から6月までの、展覧会その他美術に関するツイストを集約。
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sjo k. @sjo_k

特に2点。ステラの正方形と四半円による作品は、極めて安定な形象と、極めて不安な色彩の対比で魅せる。さらにフランシス。すべてが画面上からはらりと剥がれ落ちてしまいそうなはかなさと、すべてが画面上にいくらでも溢れてきそうな強い感情の力という相反を、美しい様々の青が切り結ぶ。圧倒的。

2013-05-19 21:16:03
sjo k. @sjo_k

Bunkamuraザ・ミュージアムのアントニオ・ロペス展へ。磯江毅のような写実を想像していたため、やや肩透かしの感。いまいち没入できない理由を考えたのだが、磯江がモノそのものに向かっていたのに対して、ロペスはモノと「私」の関係に向かっているように感じたことが係っているか、と。

2013-05-26 21:16:17
sjo k. @sjo_k

ロべスは(言うまでもなく)めちゃくちゃ「巧い」人で、写実を極限まで追究しようと思えば、することができた人なのではないか。にもかかわらず、彼はそれをしない。それはなぜかといえば、彼の興味がモノの本質ではなく、モノに絡みつく「私」に向かっていたからなのではないか、と感じたのである。

2013-05-26 21:16:26
sjo k. @sjo_k

もちろん、「モノの本質に向かう」というのは、「主観」を突き詰めるという作業ではある(https://t.co/xl2PH8nZn4)。だが「私」というのは、単なる主観とは違い、特定の広がりを持った時空間に関わる〈記憶〉を孕む、本質的に〈閉じた〉、特殊な領野なのだ。

2013-05-26 21:16:48
sjo k. @sjo_k

ロペスの絵にはあまりに「私」が現れていた(と私は感じた)。そして私は、彼の「私」、すなわち彼の〈記憶〉に寄り添えるほど、彼のことを知らない。これこそが、私が(ひたすらにモノに向かった成果に見える、磯江や他の写実の作家たちの作品と比して)彼の作品に惹かれなかった理由なのではないか。

2013-05-26 21:17:11
sjo k. @sjo_k

練馬区立美術館の牧野邦夫展へ。とにかく自画像が多くて、ほとんど辟易するほどだったのだが、それでも、引き付けられたのは例外なく自画像や、「自画像」と題せずとも作家本人が描かれている作品だった。だが、「引き付けられるけどうんざりででも引き付けられるのはなぜなのだろう」という感じ。

2013-06-02 23:12:49
sjo k. @sjo_k

それで思考は「自画像とは何か」という問題へ。昨年平塚で木下晋を観た時に考えた、「肖像画は誰のために描かれるのか」という問いを思い返した。https://t.co/en2smmc6lp そこでは「描く者、描かれる者、観る者」という三者を挙げたわけだが、自画像では前二者が同一となる。

2013-06-02 23:13:46
sjo k. @sjo_k

だが、「描く者としての自分のため」と「描かれる者としての自分のため」は、おそらく同一でない。前者は内省的な自画像を、後者は(ナルシシズムの)表出的な自画像を生むのではないか。牧野の自画像に私は基本的に後者を視(て、辟易し)た。だが一方で、それらが単純な自己愛の表現だとも思えぬ。

2013-06-02 23:14:00
sjo k. @sjo_k

結局、展覧会を3周して、同じ作品が、最初は「ただのナルシスト」の絵に思え、次はひどく内省的な絵に思え、そしてまた自己愛に思え、といったように、私の認識と評価はかなり混乱した、ということを告白しなければならない。「自画像とは何か」という問題は、ほとんど答えを掴めずに残された。

2013-06-02 23:14:13
sjo k. @sjo_k

横浜美術館の「熱々!東南アジアの現代美術」へも。残念ながら、引き付けられる作品はなかった。とかくコンセプチュアルに流れがちな「現代美術」では、作家・作品の背景にある文化・記憶・物語を共有/(せめて)知識として持っているか否かが、作品の「力」の高低にもろに響いてしまう、という印象。

2013-06-02 23:14:28
sjo k. @sjo_k

言語芸術でない「美術」は、やはり言語(が伝える意味や理屈)抜きで鑑賞者に「何か」を伝え/与えなければならないはずだ。表現が言語に負けている、すなわち、言語の方が多くのことを伝えてしまっている、と鑑賞者に感じさせてしまうような作品は、「美術」として〈弱い〉のだと言わざるを得ない。

2013-06-02 23:14:38
sjo k. @sjo_k

横浜美術館、コレクション展へも。マコト・フジムラの「復活2」「Junan Panel Series#32」が印象的。〈磔にされたイエスの手と腕〉が具象的に描かれているのは「語りすぎ」か、とも思ったが、それでもやはりこれは、精神的に洗練された「現代」的偶像であるに違いない。

2013-06-02 23:25:48
sjo k. @sjo_k

先程の話に戻れば、このほぼ抽象の作品(説明書きは一切付されておらず、表題のJunanが「受難」だと気付いたのも後のことだった)を観て私が「イエスの磔刑」を想起し、それを足掛かりに思考をめぐらすことができるのは、キリスト教という文化に関する知識を(一応)持っているからに他ならぬ。

2013-06-02 23:26:13
sjo k. @sjo_k

東京都現代美術館のフランシス・アリス展(前期)、桂ゆき展、トーキョーワンダーウォール公募2013入線作品展、そして2つのコレクション展へ。ここで一気にこんなに観たら、いつもはクタクタになるところだが、今日は残念なことによい「出会い」はほとんどなく、所要時間は(わずか)2時間。

2013-06-09 21:37:02
sjo k. @sjo_k

とはいえ、フランシス・アリス展のいくつかの作品(とりわけ、大きな氷塊を溶け切るまで街中で9時間押し/蹴り続けた記録「実践のパラドクス1」)は楽しく観た。説明書きを読んでなお、作品の面白さや意味が失われないほどの〈強さ〉https://t.co/4tSuvNyn0Dを感じた。

2013-06-09 21:41:38
sjo k. @sjo_k

「行為系」のアートにとって映像技術というのは、時空間を超えて他者に見せることができるという利点を持つ反面、生身の行為(のみ)が持っている/た強さを(時空間の彼方に押しやり、)薄めてしまうという限界が間違いなくある。アリスの作品に感心しながらも、一方でそんなことを考えていた。

2013-06-09 21:41:48
sjo k. @sjo_k

桂ゆき展。めまぐるしく画風を変えながら創作を続けた作家の(過剰にさえ思える)エネルギー、ヴァイタリティがビンビンと伝わってくる、優れた、「正しい」回顧展だった。ところが、個々の作品を単位とすると、足を止めさせられるようなものすらほとんどなかったというのが、不思議と言えば不思議。

2013-06-09 21:42:01
sjo k. @sjo_k

TWW入選作品展は、「現代の作家は本当に大変だなあ…」という去年https://t.co/rlNTJNiUtMと同じ感想。山内透の、均質な灰水色をバックにした毛(?)深い男性像「小僧」の放つ不気味さの引力に吸い寄せられた。その他、小柴薫理と蛇目にも足を止めさせられる。

2013-06-09 21:42:24
sjo k. @sjo_k

東郷青児美術館のオディロン・ルドン展へ。残念ながら、印象的な作品はまったくなかった。わずかに、鑑賞中にすれ違った女性の豊かな胸に引き付けられる。←コラーッ! それにしても、館内はかなりの混みぶり。私の記憶の限りでは、〈三幅対〉をやった10年前の「ゴッホと花」展に次ぐ混雑。

2013-06-23 14:23:40
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