デカルトによる神の存在論的証明に対するライプニッツの批判

『形而上学叙説』および『認識、観念、真理についての省察』による
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@ultraseanmann

デカルトによる神の存在論的証明に対するライプニッツの批判。『形而上学叙説』23-24節、および『認識、真理、観念についての省察』による。

2010-08-24 12:54:56
@ultraseanmann

デカルトは、「私がある事物について明晰判明に表象することは真である」言い換えれば「明晰判明な観念はその事物を正しく記述できる」という考えを示した。「明晰判明な観念」とは、「精神に疑う余地なく現われており、かつ他からはっきり識別される観念」のことで、これこそが真なる観念だという。

2010-08-24 12:56:22
@ultraseanmann

以上の前提に基づく「神の存在論的証明」とは、次のようなものである。(『形而上学叙説』23節による)

2010-08-24 12:59:21
@ultraseanmann

「私は神を考える。しかし観念なしに考えることはできない。だから私はたしかに神の観念つまり完全な存在者の観念をもっていなくてはならない。ところで、この存在者の観念はあらゆる完全性を含んでおり、現実に存在することも完全性の1つである。したがって、神は現実に存在する。」

2010-08-24 12:59:27
@ultraseanmann

『認識、真理、観念についての省察』でじは同じ内容が次のように言いかえられている。「ある事物の観念ないし定義から帰結するものはその事物に述語づけられることができる。神(=最も完全な存在者、あるいはそれより大なるものが考えられないもの)の観念から、現実存在が帰結する。(続く)

2010-08-24 13:00:40
@ultraseanmann

なぜなら、最も完全な存在者はすべての完全性を含んでいるし、現実存在もまたその数の内に入っているからである。それゆえ、現実存在は神に述語づけられる。」

2010-08-24 13:01:05
@ultraseanmann

整理すると次の通りです。 1. 私は神(=最も完全な存在者)の観念をもち、それは明晰判明である。 2. だからこの観念は、それが指示する事物について真なる内容を述べている。 3. ところで最も完全な存在者の観念には存在が含まれている。 4. したがって、神は存在する。

2010-08-24 13:02:23
@ultraseanmann

以上に対するライプニッツの反論。 明晰な認識とは、ある事物をそれとして認め得る認識のことだが、それは必ずしも判明であるとは限らない。

2010-08-24 13:03:58
@ultraseanmann

われわれが「ある事物を他の諸事物から識別するのに十分なしるしを1つ1つ枚挙できない場合には、たとえ実際はその事物の概念がそこへと分解され得るようなしるしや要件を当の事物が持っていようとも、認識は混雑している。」

2010-08-24 13:04:05
@ultraseanmann

明晰でありながら判明ではない(混雑している)認識の例として、ライプニッツは次のようなものをあげる。「色・香り・味その他感覚の個々の対象を、確かにわれわれは十分明晰に認めるし、相互に識別するけれども、(続く)

2010-08-24 13:05:33
@ultraseanmann

しかしそれは単なる感覚の証言によるのであり、明言されうるしるしによるのではない。それゆえ、われわれは赤とは何であるかを盲人に説明できない」。

2010-08-24 13:05:38
@ultraseanmann

逆に明晰判明な概念とは、「貨幣検査官が金について持っているような概念」、ある事物を他の諸事物から識別するのに十分なしるしを数え上げることができる概念である。

2010-08-24 13:06:06
@ultraseanmann

しかし、明晰判明な概念も、それを構成している個々のしるしは混雑して認識されるため、それは明晰判明であるけれども非十全である。もし判明な概念に入っているすべての構成要素が判明に認識され、分析が最後までなされたときには、認識は明晰かつ判明かつ十全である。

2010-08-24 13:06:31
@ultraseanmann

Lいわく「そういう認識の完全な例を人間が呈示できるかどうか私にはわからない。しかし、数の概念はそれにかなり近づいている」。しかし、数の概念の分析が長くなると、われわれは対象の全体を直観することはできなくなるため記号を使う。

2010-08-24 13:06:55
@ultraseanmann

仮に数が明晰・判明・十全な概念だったとしても、多くの場合、その認識は記号的なのである。これに対して、たとえば直線の認識の場合のように、明晰・判明・十全であり、しかも記号に依存する必要がないときには、その認識は直観的と呼ばれる。

2010-08-24 13:07:20
@ultraseanmann

明晰かつ判明かつ十全かつ直観的な認識こそが、最も完全な認識である(『認識、真理、観念についての省察』による)。

2010-08-24 13:07:43
@ultraseanmann

というわけで、ライプニッツによる認識あるいは概念の分類は次のようになる。 { 曖昧 or 明晰 { 混雑 or 判明 { 非十全 or 十全 { 記号的 or 直観的

2010-08-24 13:08:33
@ultraseanmann

明晰な(=事物をそれとして捉えられる)認識も判明(=他の事物と識別するために十分な構成要素を分析できる)とは限らず、判明な認識も十全(=すべての要素について、要素ごとに最後まで分析できる)とは限らず、十全な認識も直観的(=一挙に全体を見通せる)とは限らないというわけである。

2010-08-24 13:09:59
@ultraseanmann

以上のカテゴリーの興味深い点は、「混雑-判明」および「非十全-十全」までは認識の分析的な精密さを基準にしているのに対して、最後の「記号的-直観的」において、もう一度認識の総合性(全体性)という基準に立ち戻っていること。

2010-08-24 13:10:53
@ultraseanmann

こうしてライプニッツは、デカルトが曖昧なままに放置した、認識や概念の分析的な密度と全体性を、論理的に明快なカテゴリーによって修復しようとしている。

2010-08-24 13:11:33
@ultraseanmann

以上を前提にライプニッツは次のように述べる。 「以上のことから既に明らかであるのは、われわれが判明に認識しているものについてであっても、直観的思惟を用いているのでない限り、観念を表象してはいないことである。(続く)

2010-08-24 13:12:40
@ultraseanmann

それに、われわれは、用いている数々の術語を既に説明済みであると誤って仮定する時、事物の観念を心の中に持っているのだと誤って思い込むことが実際しばしばある。(引用続く)

2010-08-24 13:14:02
@ultraseanmann

ある人々の言うには、われわれはある事物の観念を持たないことにはその事物について自分の語ることを知解しながら語る訳にはいかないということである。が、それは正しくない。」

2010-08-24 13:14:45
@ultraseanmann

「正しくない」とされる根拠は次の通り。「というのも、しばしばわれわれはそうした言葉を1つ1つはとにかく知解し、あるいは以前に知解したと記憶していても、それでもこの盲目的思惟に満足してしまって概念の分解を十分に推し進めないで、図らずも複合的概念が含んでいる矛盾を見逃すこととなる。」

2010-08-24 13:15:26
@ultraseanmann

このすぐ後に、存在論的証明の批判が続くことから見れば、ここでライプニッツが念頭に置いている「複合的概念」とは神の概念のことだと解さなければならない。神の概念はたとえ明晰であったとしても、判明・十全・直観的であるとは言えない。

2010-08-24 13:16:32