medtoolさん@medtoolzの「想像の及ばない何かを想像するために、想像のものさしとしての日常風景というのは大事」
小学校ぐらいの大昔、父親からときどき、「あの場所までは何メートルだ?」とか、「あの重さは何トンぐらいあると思う?」なんて質問された。自分は全く答えられなかったのだけれど、父親は昔からそういうのが得意で、研究者にはそういうのが必要なんだと言っていた
2013-03-02 08:30:51あれは当時はからくりが全然分からなくて、せいぜい「この人はなにか特殊な能力でも持っていて、自分にはそれがないんだろう」ぐらいにしか思わなかったんだけれど、今から思えば長い距離なら電柱から概算したり、やっていたのは概算と近似だったんだろう
2013-03-02 08:32:05概算というのは、計算や頭の良さを競争するゲームではなく、むしろ身の回りの何か、大きさや重さが分かっているような、手に届く手がかりを探索するゲームであって、もう今さらだけれどそういうの教えてほしかったよなと思う。
2013-03-02 08:34:32想像の及ばない何かを想像するために、想像のものさしとしての日常風景というのは大事だし、それを単なる風景として眺めるのではなく、大きさや重さの、自分が物事を想像するための原器として日常風景を援用できるようになりなさいよ、というのが「概算できるのは大事だよ」の意味であって
2013-03-02 08:36:05日常風景を大事にしていない人は、あるいはそれを単なる愛玩物とみなしている人は、たぶん他人の風景や問題を、自分の実感として想像することもできないし、あるいは他人の悩みや致命的な問題も、単なる愛玩物として消費してしまう
2013-03-02 08:37:21@nomaht 概算と近似というのは、計算それ自体よりもむしろ、既知の数字と計算の工程を明示することで、概算ができない誰かを説得する道具として有用なんだろうなと
2013-03-02 09:07:47道徳的に正しいけれど無茶な考想を叫ぶ誰かに対して、「それをやったらいくらかかると思っているんですか !」はブレーキとして悪手になる。その人が「大丈夫だ。やってみせる」と宣言したら二の矢が継げない。「それをやると○○円かかります。お金ないです」と概算してみせないといけない
2013-03-02 09:31:56概算の能力に優れるということは、概算の主体を自分の側に持ってくることができる、ということでもある。概算の能力は、結果として議論の決定力に結びつく。熱意とか道徳、正義と対峙するのに、これができないと押し切られてしまう
2013-03-02 09:33:08