中島智氏【アートへの「期待」と研究者や施設のありかた】

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中島 智 @nakashima001

ある帰結が表明されるとき、そこにはその帰結を導きだした理由が内在している。例えば「アートは○○だ」、「ミュージアムは○○だ」と表明されるとき、そこには「なぜなら私がアート/ミュージアムに○○を期待しているから」という理由がまず表れる。その「期待」も、その「期待」の理由もさまざま。

2013-03-07 05:22:29
中島 智 @nakashima001

アートは一つではないのだから、アート研究者もアート施設も「択ばれた同時代性/風潮」に構わず、それぞれの生態学的偏務性を発揮したほうがよい。ある偏向は生態学的システム全体にとって有意であるという、そのシステム全体は「択ばれた同時代性」よりもはるかに包括的なものだから。

2013-03-07 05:23:29
中島 智 @nakashima001

運営に無理さえなければ、例えば静嘉堂文庫美術館のように一定の「目利き」を顧客とするミュージアムも有意。もちろん「目利き」に限らずとも、ミュージアムは顧客たちによって育てられる場所。そうしたフィードバックが見えなくなると「教育/情報発信」施設として、自らを矮小化してしまう。

2013-03-07 05:24:32
中島 智 @nakashima001

この、教育/情報発信/啓蒙‥というスタンスは地域でのアートイベントにおいても興行的性格として頻出する。常に一部の作家たちはフィールドワークを通して作品制作をおこなうが、事前調査によって事務局が人材バンクの様相を呈する例はおろか、地域からの発注イベント例など殆ど聞かない。

2013-03-07 05:25:58
中島 智 @nakashima001

こうした一方通行の「発信」とパラレルな関係にあるのが「発信者」の匿名化。いまだに美術館の多くはキュレーションの主体を前面化しない。そこにはルーブル開設(革命)以来の「美術館=公共」というイデオロギー的な慣習と、「公共=匿名」という社会(世間)観の慣習がひとしなみに認められる。

2013-03-07 05:27:42
中島 智 @nakashima001

その意味では松岡美術館の、個人コレクションは個人コレクションとして提示し、学芸員が新たにコレクションを加えないポリシーは原則として明快である。但し「何も足さない」と同時に、駄作、凡作、あるいは贋作であっても「何も引かない」ことが遂行されるシステムになってはいない点が案じられる。

2013-03-07 05:28:47