渡邊芳之先生@ynabe39の「「人権を守れ」「差別をなくせ」とわれわれに命ずる神様が必要。」
はい、そうだと思います。 RT @ynabe39 とすると人権というのはもともと「人が自然には受け容れがたいものである」ことになりますね。実際そうだと思います。
2013-03-13 02:23:06「みんながよいと認めることは自由にやってよい」というのは別に古代の社会でも封建制や独裁制の国家でも大昔からそうであったと思うから,近代以降にわれわれが勝ち取ったといわれる「自由」が「みんながよいと認めることは自由にやってよい」ということではないのは明らかだ。
2013-03-13 07:32:56同様に「よい人がよいことをする権利」が認められるのも大昔からそうであっただろうから,われわれが近代以降得たと言われる「権利」も「よい人がよいことをする権利」ではないのだと思われる。
2013-03-13 07:34:07「みんなが認めないことをする自由」「(誰かによって)悪い(といわれる)人が(誰かによって)悪い(といわれる)ことをする権利」というのが,近代以降に徐々に拡大してきた自由であり権利なのだろうと思う。
2013-03-13 07:38:10「悪いこと」と「それを禁止し取り締まる法律」はどちらが先にできるか。それを考えれば「悪いこととは法律で禁じられたことである」というのが同義反復のトートロジーであることはわかる。しかし「悪いこと」をトートロジーでなく定義する方法はあるのか。
2013-03-13 07:41:26「自分が嫌なことは他人にもするな」とか「自分のしてほしいことを他人にもしろ」というのは「目には目を」が論理的に変換されたものなんだろうと思う。
2013-03-13 07:43:55「権利は守らなければいけないが,悪い人の権利や悪いことをする権利は制限しなければならない」として,誰が悪い人で,どれが悪いことなのかは誰がどうやって決めるのか。(法律が決めるというのはトートロジーというのは前に書いた。)
2013-03-13 07:46:24そこにはやはり「論理的な帰結」ではなく「超越的な価値」がなければいけないのだと思う。さて,その超越的な価値が社会に複数あってそれぞれ相容れない時にはどうしたらいいのか。
2013-03-13 07:47:15「目には目を」というのは「加害者と被害者が基本的に同じような人間である」ことが前提で初めて成り立つシステムで,多様性が高まるほど成立しにくくなる。
2013-03-13 07:51:11ネットでは「社会の秩序を守るためには人権の制限はしかたがない,権利の濫用をもっと制限すべきだ」と考えている人ほど「いま現在そうした制限を強く行っている国」を嫌っているように見えるのも,そこに「超越的価値」の違いがあるからだと思う。
2013-03-13 07:56:55@ynabe39 ハムラビ法典の同害報復原則(刑の上限規定)自体、同じ身分の者同士の犯罪に限っていたんですよね。異なる身分、奴隷が主人のビールを盗んだら死刑とか、平気であった。ここでも違う人間にはいくらでも残酷になれた。
2013-03-13 08:04:47なんてことを考えてもわからないから「神はこれらのことを石板に刻んでわれわれに与えた」と言って納得して回っていたのに「それじゃ納得できない」と言ってしまったのだからしょうがないのだ。
2013-03-13 08:17:10ダンゴムシが一箇所に集まっている理由がわからなかった時には「ダンゴムシは相互の愛情が強い生き物だから集まる」みたいな説明を本気でしていたらしい。それぞれが湿度の少しでも高い場所に移動した結果集まっていることが解明されてからダンゴムシの愛について言う人はいなくなった。
2013-03-13 08:44:54「キリストは偉大だったが弟子たちが悪かった」「仏の教えは正しかったがその後の仏教は堕落した」「科学は間違っていないが人類は科学の成果を正しく活かさなかった」。
2013-03-13 12:32:04@ynabe39 パウロ「それも神の御意志です」道元「批判などほっとけー只管打坐」アインシュタイン「想定の範囲内です」
2013-03-13 12:36:16