《追加の避難指示ができなかったのはなぜだろう?》

原発事故が深刻化する中、原発から半径20キロの避難指示の後、追加の避難指示が出ませんでした。その理由について、推測した自己ツイートをまとめてみました。
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宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

24 ここで、避難指示の話に戻る。20キロ圏内からの住民避難の混乱の様子は、テレビ等の報道である程度国の中枢まで届いたのだと思う。一方、収束させる能力があろうがなかろうが、収束の実務を東京電力に何とかさせる以外の方法は、短期的には日本にはなかった。米国からはまだ専門家が来ない。

2013-03-28 22:14:16
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

25 現場はともかく、住民の避難について日本国外にアドバイスをもらうという発想は、日本政府にはなかったのではないだろうか。日本よりも原子炉の知見が豊かそうな米国やフランスにしても、日本国民の避難の実務のアドバイスは期待できそうにない。

2013-03-28 22:16:36
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

26 12日に指示された20キロ住民避難だけでも、多数の避難者を受け入れた福島県中通りでは大混乱を続けていた。避難者は、県が指定した避難所にあふれ、県が指示していない施設にまで避難者がやってきていた。さらに、たとえば福島市だと、市民自身が停電や断水の被害も受けていた。

2013-03-28 22:20:05
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

27 国民に指示できる状況が、日本の官僚にとっては所与の前提だったはずだ。しかし、「政治決断」で下された20キロ避難では、官僚が状況をコントロールできていなかった。14日になっても、避難元の自治体との情報伝達体制は回復していなかった。福島県との連絡でさえ、不安定だった。

2013-03-28 22:23:39
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

28 2011年3月14日、3号機が爆発した。この頃になってようやく、政府と福島県庁の連絡体制ができ始めたようだった。政府官僚による状況掌握もままならない一方、首相官邸主導による避難方針決定が継続されているように見えた。そこに、3号機の爆発だ。

2013-03-28 23:00:19
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

29 恐らく「どうなんだ?避難を広げることはできるのか?」という首相からの問いかけが発せられただろうと、私は推測する。しかし、それに返事できる官僚はいなかったのではないか?なにしろ、燃料を福島県中通りに輸送することさえもできない状況だった。まだ、燃料施設火災が収まってさえいない。

2013-03-28 23:04:34
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

30 全く責任を放棄して、「原発から50キロの範囲にいる皆さん、自力でそこから遠くに避難して下さい」と言うことは可能だったと思う。しかし、そんなことを首相に向かって返答できる官僚はいないだろう。通常の思考での「責任」問題も脳裏をよぎるだろうし、計画性の無さも官僚は嫌うだろう。

2013-03-28 23:26:47
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

31 首相官邸には常に、東京電力と原子力安全委員と安全・保安院のそれぞれから1人ずつが来ていたと言うが、避難の提案をすべきは安全委員だろうが、斑目氏は12日の1号機爆発以降、提案能力など無いだろう。住民の緊急避難をマニュアルなしで組める官庁など、存在もしないだろう。

2013-03-28 23:30:46
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

32 そして15日。最大の放射性物質の放出があった当時。首相が総長に東京電力に乗り込んで、非常時体制を構築し、そのご福島県に向かい知事と会談したとき。県知事はこれ以上の強制緊急避難指定を拒絶した。ようやく福島県庁が、県内自治体首長との連絡が取れるようになった頃だ。

2013-03-28 23:35:15
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

33 2011年3月15日、福島県は、事態の掌握を懸命にしている状態だった。浜通りからの避難者は福島市の避難所の間をさすらいながら親戚知人を探し回っていた。県外からの燃料供給再開は、かなり難しい見通しが出始めた。停電や断水の復旧にも、かなりかかりそうだった。

2013-03-28 23:39:51
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

34 避難指示区域を30キロ圏まで広げれば、南相馬市の大半といわき市の広い部分が含まれることになる。この地域への広報は、平時であっても難しい。住居が点在している上に、電波が届きにくい場所も含まれる。50キロにしたら、相馬市や田村市の大部分、いわき市の主要部分が入る。

2013-03-28 23:51:59
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

35 つまり、さらなる避難範囲の拡大を決断すると言うことは、そこにいる住民に連絡し、そこに何とか避難した人たちに再移動を要請し、自治体役場の移動も要求することになる。避難者支援に回っている人自身が、今度は避難者になる。しかも移動手段は自力で、というしかない。

2013-03-28 23:55:18
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

36 そういう提案をするのは、大きな決断だ。しかも、提案自体が無責任と言われることを覚悟の上で提案するしかない。しかも、放射線量の確かな数字さえも、まとめて把握していた人物は東京にはいなかったのではないか?避難と在留のリスクの比較をできるだけの材料がそろっているわけでもない。

2013-03-28 23:59:02
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

37 要するに、「避難指示」を待っていた私を含めた居住者は、ありえない指示を期待していたことになる。指示する能力も、指示のための準備をする能力も、国にも県にも自治体にも無かった。たった一つ、双葉町を除いては。しかし、住民全員を帯同できなかった双葉町長は後で責められることになる。

2013-03-29 00:03:15
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

38 双葉町長は、避難先の川俣町から埼玉県への避難を断行する。バスを使って。もし、周辺の自治体が一斉に避難を決断したら、双葉町のバスの確保は困難だったろう。実際に即時全面避難範囲を広げることは難しかったことに関してだけは、理解できる。

2013-03-29 00:10:37
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

39 責任を持って、具体的な計画を持って、避難指示を出せる範囲は、地震と津波に襲われた2011年3月15日のあの時点では、やはり20キロが限界だったのかもしれない。ただし、どうしても納得できない点が私には残る。なぜ、放射性物質への警戒を呼びかけなかったのか、という事だ。

2013-03-29 00:15:50
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

40 3月15日には、さまざまな通信手段も回復しつつあった。停電も復旧しつつあった。「空間線量」の報道も福島県内では当たり前になりつつあった。なぜ、「空間線量が上がっている地域では、不要な外出を避けよう」などの呼びかけさえも不可能だったのだろう?

2013-03-29 00:20:09
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

41 一方では、寸断された道路の復旧など屋外作業を懸命に行っている人たちがいたこともわかる。だけど、優先順位が違ったのではないか?避難指示が出せなかったことまでは、善意で考えれば100万歩位譲って認めても良い。しかし「放射性物質に対する警告jはなぜ発信されなかったのか?

2013-03-29 00:30:26
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

42 「国民を守らない国家に、国家である資格はない」と私は考えている。最低限「国民を守ろうと努力する」位のことはしてほしい。しかし、放射性物質の危険性に関する警告については、首相が交代しても、政権が交代しても、原子力規制組織が改組されても変わらない。では、変わらないのは誰だ?

2013-03-29 00:33:23
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

43 変わっていないのは実務を担う国の官僚。「科学者」。県と自治体の首長。これらの人たちが、放射性物質の危険性を広報することの重要さを認めることは、以前の自らの行動を間違いだと認めることになる。皆さん、そろそろ人事異動の時期だ。交代したら、間違いを認めてはどうだろうか?

2013-03-29 00:36:08