渡邊芳之先生ynabe39の「日の丸ははずしません。」
第二日目
つづき
ダブスタだからいけないと言っているのではなくて、そういうダブスタを「正当なもの」とするために必要なのが「正義」なのだ、と言っている。「正義であればダブスタでもいい」のである。
2013-03-30 07:59:19しかしそれは「日の丸を嫌う歴史的経緯を配慮しないで日の丸をつける方が悪い」「日の丸で傷つく人の感情を配慮しない方が悪い」のだという。
2013-03-30 08:06:41同じことを在特会の人が言ったらどうだろう。「自分たちがヘイトスピーチするのは自分たちの感情を配慮しない不適切な行為があるからだ」。まあおそらく私も「都合のいいことを言うな」と思うだろう。
2013-03-30 08:08:50簡単な話で「日の丸反対は正義だが在特会は正義でないから日の丸反対のヘイトスピーチは許されるが在特会は正義でないので在特会のヘイトスピーチは許されない」のだ。
2013-03-30 08:09:59それでいいのだ,正義というのはそういうものだし,そういう「ダブスタ」を行うために正義というものがあるのだ,というのが私の言っていることだ。
2013-03-30 08:10:35他人のヘイトスピーチを批判しつつ自分はヘイトスピーチするためには何らかの正義が必要,ということです。 RT @aman_GT: 他人のヘイトスピーチを批判できるのは、他人に対してヘイトスピーチをしない人のみ?
2013-03-30 08:35:32表現や言論の自由も「自分の正義を実現するための戦術」くらいにしか考えていない,というのがその種の人々が信頼を失った原因だと思います。
2013-03-30 08:42:30「敵と味方」でも「被害者と加害者」でも「抑圧者と犠牲者」でも,そういう原理的な非対称性を「議論以前の問題」として仮定するためには何らかの正義,あるいはその仮定自体が正義とされることが必要だろうと思う。
2013-03-30 09:08:14つまりいくらどのようなことを言っても正義であればヘイトスピーチと呼ぶべきではないし,正義でないならヘイトスピーチであるということだろうし,それでいいと思いますよ。
2013-03-30 09:10:48特定の人々には「ヘイトスピーチ」も戦術として認めたいからそれは「ヘイトスピーチ」という名前で呼ばないようにしたい,というのと昨日の「ヘイトスピーチに表現の自由などない」というのは「基本的に同じ話」だと思う。他の人には違う話に見えても自分には同じ話に見える。
2013-03-30 09:20:30批判といじめは機能的には同じもので,正義なものが批判で正義でないものがいじめ。しかしいじめの多くも「ローカルな正義」に基づいて行われる。「それはいじめだ」というのは「それは正義ではない」と言うのと同義。
2013-03-30 09:26:06