山本七平botまとめ/民意を絶対としながら、民意の投票結果を絶対としない日本人
- yamamoto7hei
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①【ノン・カタギ】当時の論説その他を見ていくと、欠落している点が三つある。 一つは前述の「天賦人権論」であり、一つは「内的規範と外的規範の峻別」であり、もう一つが「投票」である。<『1990年代の日本』
2013-03-25 15:58:00②私はつくづく文化とは不思議なものだと思う。 というのは、あのような発想をした孟子に、なぜ「投票」という考えが思い浮かばなかったのであろうか、という点である。 文盲が多かった時代には「投票」などは無理だとは決して言えない。 投票石を用いるという方法が昔のギリシアでもあった。
2013-03-25 16:30:19③たとえば、殷の紂王からすでに民心は去って、周の武王に民心が集まったというのは、投票石を用いればよい。 いわば紂王を支持する者は黒石、武王を支持する者は白石を投じよで、それの集計によって、民心の帰るところを計量化すればよいはずである。
2013-03-25 16:57:58④ところが、あそこまで考えながら、孟子は「天意は人心に現われ、それは投票によって明らかになる」とは考えなかった。 どの文化にも、そのような限界があるのであろう。 投票はおそらくギリシアに始まったが、これがユダヤに入り、サンヘドリン(最高法院・衆議所)で行われた。
2013-03-25 17:28:02⑤もちろん宗教法は神が定めたものとされるから、これを多数決で変えることはできない。 しかしその『五書(トーラー)』への解釈という問題がある。 そしてモーセから千年もたつと、その解釈がむしろ実定法に等しくなる。
2013-03-25 17:57:54⑥もちろん『五書(トーラー)』は”神定憲法”だから文字通りの不磨の大典だが、その「解釈に基づく実定法」は、憲法に基づく各法のようになる。 従って「解釈機関」は「立法機関」のようになるが、この際はあくまでも投票による多数決であり、それ以外の方法は全く認められなかった。
2013-03-25 18:28:19⑦ただしそれは『五書(トーラー)』の中の「法規(ハラハー)」に関する部分に限定される。 いわば多数決には、それを用いてよい対象が明確に定められており「全てに対して絶対である」わけではない。 そしてこの「法規(ハラハー)」の解釈に関する限り「投票にのみ神意が現われる」のである。
2013-03-25 18:57:56⑧孟子の「天意=人心論」がもし、投票にのみ天意が現われるという形になったら、「投票の結果が天の意志」となるから、また別の発展があったかも知れない。 この伝統はキリスト教社会に継承された。 たとえば教皇の選挙のコンクラーベはそれである。
2013-03-25 19:28:19⑨投票者は各個室で祈りつつ投票する。 もちろん根回しなど許されない。 そして投票に神意が現われるまで何回でも繰り返し行うのである。 前にある席でこの話をしたところ 「そうですか。そういう事なんですか。 投票に神意が現われる、などという考え方があるとは想像もしませんでした。
2013-03-25 19:57:55⑩「だから、何であんなパカげた繰り返しをやっているのだろうと思っていました」 と言った人があったが、日本人にこういう発想がなくて当然であろう。
2013-03-25 20:28:27⑪だが「投票に神意が現われる」は、キリスト教の発生以前からあった考え方なのであり、これが「秘密投票に基づく多数決」が「法規」的な問題に関する限り、絶対化した伝統である。 この点、中国の影響が強かった日本は違う。
2013-03-25 20:57:57⑫「人民の意志が絶対だ」と言う人はいつでも「人民の意志は絶対だから、その投票の結果は絶対だ」とは言わないし、ましてそれが法規的な面に限定されるとも考えていない。 いわば投票結果を限定された枠内で神意の如き、あるいは天意の如き、最終的判定・最終的決定とは考えないのである。
2013-03-25 21:28:18⑬もちろん日本人は、中国人と同じ思想をもち、同じ歴史を歩んできたわけではない。 たとえば徳川時代には、統治権者は将軍であるという意識は広く深く浸透しており、天皇の存在を知る者は少なかったが、では将軍を聖人と考え、聖人と呼んだかといえば、決してそういうことはなかった。
2013-03-25 21:57:54