山本七平botまとめ/「虚構の”座標”をなぜ信じるのか?」~人は”かたより見る”ものであるという前提がない日本人~
- yamamoto7hei
- 27009
- 773
- 1
- 246
1】~前略~すべての人には偏見があり、すべての人には先入観があり、すべての人には誤認がある――もちろん私にもある。I社長にもある。新井宝雄氏にもある。ではこれを一体どうすればよいのか。<『ある異常体験者の偏見』
2012-05-12 03:26:292】『死海写本』という有名な写本が発見されたことがあった。俗に二十世紀最大の考古学的発見といわれる。この発見直後から、世界中の専門学者をまきこんだ「巻物戦争(スクロール・ウォー)」といわれる一大論争が起った。それはこの写本の年代についてである。
2012-05-12 03:57:023】論争の細部は省く。大略をいえばバロウズが紀元零年前後、それに対してツァイトリンが6~7世紀を主張した。ツァイトリンは『ユダイカ』という専門学術誌の主筆を兼ねる専門学者である。
2012-05-12 04:26:374】こういう論争はごまかしようがない。マアマアでおさめるわけにはいかず、たして二で割るわけにはいかず、「ああも言える」が「こうもいえる」と二人の顔を立てて手打ちというわけにもいかない。結局どちらかがまちがっている。
2012-05-12 04:56:435】そこで二人は、いわば「学問的生命」をかけ、互いに、専門的なあらゆる反論を提示して争ったわけである。論争は最初ツァイトリンに有利であった。~略~定説通りに見れば当然ツァイトリンの見方になる。そして定説とは、いわば、すべての学者がもつ先入観であり、ある意味では偏見である。
2012-05-12 05:26:316】当時もしこれを「投票」で決したら、おそらくツァイトリンが絶対多数であったろう。前に私は「事実論」と「議論」とを分け、「事実論」に要請されるのは論証だけであって「多数決」ではない。
2012-05-12 05:57:007】『百人斬り競争』は「断固たる事実」だと、何百万の新聞読者が主張しようと事実でないことは事実でなく、それは多数決の対象とはならない、と記したが、この場合もそうで、どちらにだれがどれだけ数多く賛同しようと、それは関係がない。
2012-05-12 06:26:318】そして結論をいえば、最初は孤立的だったバロウズが結局は正しく、ツァイトリンが誤っていた。だがここで見逸すことが出来ない事実がある。
2012-05-12 06:56:409】それはツァイトリンが自分が主宰する雑誌『ユダイカ』に、自分を徹底的に批判し、いわば「コテンパンにヤッツケている」バロウズの論文を、自分の学問的生命を奪いかねない論文を、自ら掲載しつづけたことである。
2012-05-12 07:26:3910】私は最初これにイタく感激し、何という立派な態度であろうと思い、どうしてわれわれはこういう態度がとれないのか、と思った。だがあまり感激すると、人間は少々自らにテレ臭くなるらしい。その反動か、それにつづいて私は「彼らはズルいのだ」と考えた。
2012-05-12 07:56:5611】「確かにズルい。こうやっておけば、たとえツァイトリンは誤ってもバロウズの論文が掲載されているのだから雑誌『ユダイカ』は誤っていない、従ってその点では主筆ツァイトリンも誤っていないことになるのだから……こりゃ、一種の『逃げ』だ」と。
2012-05-12 08:26:5312】だがそう思うと、今度は彼らの真に堂々たる応酬が思い出され、そう考えた自分が恥ずかしくなり「これは、きっと一つの知恵なのだ。何しろその長い歴史で徹底的に論争し合ってきた彼らだから、その長らくの体験から生み出した一種の『民族の知恵』『生活の知恵』なのだ」と考えた。
2012-05-12 08:56:5413】だが今ではそう考えていない。確かにこういった態度は、時にはフェアであり、時にはズルく、時には「逃げ」であり、また時には生活の知恵として働くのかもしれない。何も彼らのすべてが人格者というわけではない。泥棒もいれば詐欺師もいる。
2012-05-12 09:26:4114】そこで「体を張って」「悲壮調で」「ダンコたる態度」をとるのが高貴とされるわれわれの伝続から見れば、彼らの行き万が、その相手によって、常に上記のいずれかに感じられることも、また致し方のないことかも知れぬ。
2012-05-12 09:56:4815】だがしかし、おそらく私の以上の見方はすべて偏見であって、彼らの行き方の底にあるものは、「ヤハウェはかたより見ない」しかし「人はかたより見る」ものだという、一つの基本的な前提であろう。
2012-05-12 10:26:4016】それは、自らの見方に偏差があること、すなわち偏見があることを当然の前提とする――たとえそれが全く学問的な年代決定という問題においてすら。従って、自らと全く視点の違う見方を同時に併載するのは、むしろ当然のことなのであろう。
2012-05-12 10:57:0217】この場合、もし私がこの論争に興味を感じ、『ユダイカ』の記事を翻訳して山本書店で出版したとする。その際、ツァイトリンは主筆なのだからということで彼の説ばかり紹介したら、どういうことになるであろう。それは日本の読者を誤らす行為であり、誤報の提供にすぎない。
2012-05-12 11:26:4918】そしてバロウズ説の正しかったことが判明したとき「意外な結果!」などと報じたら、それは読者を二重に欺く行為であり、さらに一転してツァイトリン批判に転じ、そんなことははじめからわかっていたといった「したり顔」をするなら、その行為は恥知らずの名に値しよう。
2012-05-12 11:57:1419】ツァイトリンがはじめから、進んで、バロウズの説を掲載しているのを、こちらが勝手に削除していたのだから――。最近ある人から、日本の新聞の「アメリカの新聞、ニクソン辞任を要求」の報道はおかしい、という話を聞いた。
2012-05-12 12:27:2920】その人の話では同じ新聞に「ニクソン辞任反対」の意見も併せて載せられていたというのである。私がもう二十年近く前の『ユダイカ』を思い出したのはこの時であった。『ユダイカ』の所説を正しく日本に紹介するなら、それはツァイトリンとバロウズの双方をそのまま紹介しなければならない。
2012-05-12 12:57:1221】それをしなければ誤報であり、読者を欺く。同じようにアメリカのその新聞の主張を紹介するなら、ニクソン辞任要求と辞任反対の双方を紹介しなければ、アメリカのその新聞の所説を正しく報じた事にはならない筈である。それをしないならば確実に誤報といえる。ではなぜそれをしないのか。
2012-05-12 13:26:5522】少し前に新聞社の人と会う機会があった。私は早速にこの問題を持ち出した。全く相反する署名入り社説が一つの新聞に並んでいて少しも差し支えないではないか。そしてその二人が「論争の楽しみ」で、どちらかが倒れるまで徹底的に紙上で論争し合ってよいではないか。
2012-05-12 13:56:5223】またその新聞を徹底的に批判する論評そのものを、ツァイトリンのようにその新聞の第一面に載せて少しも差し支えないではないか。また一見全く相反する記事が、例えば新井宝雄氏の大塞人民公社の記事と紅衛兵ケン・リン氏の記事とが同時に並んでいて、少しも不思議ではないではないか。
2012-05-12 14:27:1224】なぜそれが出来ないのか、と。その人の答は次のようであった。確かにその通りだと思う。しかしそれが出来ない。というのは、ちょっとそれに似た状態になっただけで、読者から徹底的に批判をうけ、抗議もしくは難詰の電話が来ると。一体それはどういう訳でしょう、私は驚いてたずねた。
2012-05-12 14:57:0625】結局読者は安心したいのですよ。その人は答えた。二つの相反する論説を比べて自分で結論を出す過程の不安に耐えられない。そして自分が出した結論にも安心できない。従って自分で考えず、考える事を新聞に白紙委任して世の中はこうなのだと断定して貰ってそれを信じて安心していたいのですよ、と
2012-05-12 15:27:26