山本七平botまとめ/「一方的断定を事実としてしまう」興奮性・雷同性人間が起こす無用の流血騒ぎ~真の勇者から程遠い憲法絶対平和主義者たち~
- yamamoto7hei
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1】前略~話が妙なところへとんだが、おそらく地獄船の我々に幸いしたことは、まず第一に、当時船倉にいた者はみな、自分の判断と客観的な事実とは別だということを否応なしに叩き込まれた者であったことだろう。<『ある異常体験者の偏見』
2012-06-19 16:26:412】哲学者はいなかったであろうが、一方的断定を事実にしてしまう者は、既にこの世にいなかった。そして判断と事実の違いを本当に知って「女形らしき者発見」という言葉が当然のことのように口から出る者だけが、生き残れる者だったからである。
2012-06-19 16:56:393】もう一つ幸運だったのは、回虫の保持者がいなかったからかどうか、それは少々疑問があるが――私はこれが大きな要素と思っているが――奇妙にイラついたり、すぐカッとなったりするタイプもいなかったことであろう。そういう人は、例外はあろうが、もうみな死んでいた。
2012-06-19 17:26:554】従って恐るべき飢餓、船倉という異常な環境、どこへ連れて行かれるかわからぬ不安、食物を支給されない不安、高熱・下痢・潰瘍という異常な肉体的苦痛の中でも、人々は、終始ある種の冷静さを持ちつづけていた。いわば興奮性・雷同性のある人間は既にいなかった、といえる。
2012-06-19 17:57:575】これに比べると、今日の様々な「騒ぎ」が私には逆に非常に異常に見えてくる。そしてこれで「飢餓」という事態にもし直面したら「日本丸」の船倉は一体どうなるであろうか、という思いもする。
2012-06-19 18:27:306】しかし当時の我々にも非常に危険な点も確かにあった。それは指揮官も責任者もおらず、何一つ組織といえるものがなかったことである。…アメリカ側が組織的抵抗を恐れて、故意に…上官と部下という結合をばらばらにほぐして、いわば「つきまぜた」ような形にした面も確かにあった。
2012-06-19 18:57:027】しかしこれは逆に危険な面も出てくるのであって、いわばこの無秩序でしかも精神的にも生理的にも異常なところへ突発的な事故――例えば発狂した者が不意に護衛兵の銃を奪うというような事――が起り、それが相互の関係の緊張状態が極点にまで張り詰めているような場合だと(続
2012-06-19 19:27:148】続>冷静にこれが処理できなくなって、暴動の突発とその鎮圧といったような形になって、全く無意味な流血へと転化するからである。そして相互に被害者を出す。(註:南京事件の)山田旅団で起った事は、恐らくこういった事であろう。この場合「事実」は何の説得力も持ってくれないのである。
2012-06-19 19:57:079】この中国人の捕虜の置かれていた客観的な事態は「捕虜を北岸に輸送して釈放する」ということであった。これは事実であろう。鈴木氏が、それが入城式の夜であったと語っていることが、それを証明している。
2012-06-19 20:27:3310】南京戦に参加した古い下士官や兵士の話をきくと、彼らは皆南京入城で戦争は終ると信じていたのである。新聞は南京目がけて「破竹の大進撃」などと書きたてたが、本当は彼らは故郷に向けて走っていたのであって、南京はその一里塚にすぎなかった。
2012-06-19 20:56:5611】「南京まで行きゃクニに帰れる」いわば南京は「クニ」の入口であった。また上層部もある時点まではこれで戦争が終ると判断していたようである。従って「戦争は終るんだから捕虜は釈放してしまえ。ただ南岸じゃ騒動でも起されては厄介だから、北岸まで運んで釈放しろ」という事であったろう。
2012-06-19 21:28:0212】従って暴動の起る五分前に「船が来たゾー」という叫びがあがれば、何も起らなかったであろう。そしてここに何か事故があったとするなら、それは陸上部隊と舟艇隊との連絡不備という事だけであろう。
2012-06-19 21:57:2013】だがこういう客観的な事実をいくら詳細に調べても、この事件の実態は出て来ないし、またその発端が、誰かが発作的に護衛兵の銃を奪ったからだとか、あるいは単に護衛兵の不注意からする暴発が契機となった、という事がわかっても、それはこの事件の解明にはならないであろう。
2012-06-19 22:28:4114】では、なぜこういう事件が起ってしまったか、それは、私にとっては自分の体験から推断する以外にないが、私が出来うる限り自分の状態を正確に記そうと思うのは、戦争の勃発、特にその発火点には、それらのケースと、基本的には非常に似たものがあると思うからである。
2012-06-19 22:59:3715】まず我々のおかれた客観的状態は、後からいろいろと調べたり、アメリカ軍将校に直接聞いたりして再構成してみると、山田旅団の場合と同様、これまた実に単純きわまりない事件、いわば「舟艇と陸上部隊の連絡不備」といったような事故にすぎないのである。
2012-06-20 03:26:5616】我々がまず収容されたアパリの仮設収容所には炊事設備がなく、そこで我々は、ジュネーヴ条約の第何条とかに従って…朝ター個ずつ計二個のKレーションを支給されていた。輸送は通常は陸路によるトラック輸送で、途中の仮設収容所で一泊し二日目の夕方マニラ南方のカランバン収容所につく。
2012-06-20 03:56:5117】従って全て朝食後出発、夕食は途中の仮設収容所でとる。翌朝その仮設収容所で朝食後出発し、夕食はカランバンで取る、という形になっていた。ところが、それでは到底輸送がまにあわなくなった。施設には限界があるから、輸送が間に合わねばあふれてしまう。
2012-06-20 04:26:4318】そこへ船が来て、空船でマニラヘ回航されるというので、これ幸いと早速…捕虜をつみこんだのはいいが、今まで陸送しかしておらず、食糧は次の収容所で支給されるから渡す必要がないのと、次々に現われる捕虜を収容するのが手一杯で、つい食糧を渡すのを忘れたというのが真相らしい。
2012-06-20 04:56:3819】こういうことは、戦場では少しも珍しいことではないのである。二日、三日補給がなくても、それはあり勝ちなことだし、第一我々は、大本営から一粒の米も補給してもらったことはないのだから。このこと自体は、何も捕虜だから軽視したのだといえることではない。
2012-06-20 05:26:5420】だがその原因をたどれば捕虜収容で一番困る問題はそれが…不意に発生し…何名になるか見当がつかない事にある。「バターンの死の行進」の最大の原因は二万五千と推定していた捕虜が七万五千おり、これがどうにもできなかったという事が主因で、これも「捕虜だから」特にどうこうしたとはいえない
2012-06-20 05:56:3721】戦場では、善悪いずれの方向へもそういう特別扱いをする余裕がないのが普通である。我々の場合もそしてまた山田旅団の場合も、非常に似た事で、いずれも捕虜だからとか、そこにいたのが残虐人間だったからだということではない。
2012-06-20 06:26:4622】バターンの場合と似ているが、大体終戦時に日本軍が何名生き残っているのか、それは誰も知らないのである。軍司令部では勿論わからないし、各師団司令部でもわからない。もし全軍か掌握できているなら小野田少尉のようなことにはならない。
2012-06-20 06:57:2223】終戦当時は、彼のような例はいくらでもあり…そういう訳で人数は全然わからないのだが、アメリカ軍は一応これを約七万と推定し七万人分の糧食・給水設備・被服・収容施設・輸送手段を二週間で作りあげた。これを私に話したのはHという大尉だったが、全く不眠不休の突貫作業だったそうである。
2012-06-20 07:26:5624】これは形は変わっても山田旅団の場合に、兵隊が一生懸命、捕虜の為に食糧を集め不眠不休で一万人分の飯を作ったのに似ていよう。だが同じ不眠不休でもアメリカ軍の作業力と物量があって初めてこれだけの作業ができる事で、ツルハシ・モッコ・飯盒炊さんの日本軍では初めから到底不可能である。
2012-06-20 07:56:4725】第一、不意にあらわれた七万人に、糧食だけでもすぐさま支給する予備能力などは「緒戦の大勝利」の時の日本軍でもない。アメリカ軍は余力があったとはいえ、七万の推定が大きく狂って、残存日本軍は十一万余いた。四万余があふれたわけである。
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