まとめ管理人
@1059kanri
よく大阪の陣は「家康が自身の寿命の尽きる前に豊臣を滅ぼすため」と説明されがちだが、乱の主要要因が豊臣家側からの挑発行為である以上、むしろ秀頼の側に「家康が生きている間に徳川を滅ぼす」必要性があったのではと、今考えを整理中。
2010-09-10 20:57:23
まとめ管理人
@1059kanri
秀忠は当時既に、東日本の大名を完全に掌握しスムーズな代替わりがほぼ確実だった上、秀頼の「義父」という立場でもあり、ここから家康が死ねば、一気に豊臣家家中に介入してくることは必須であった。それを恐れたゆえの挙兵だった、というのはどうだろう?
2010-09-10 21:03:52
まとめ管理人
@1059kanri
家康の豊臣家への監視が「緩かった」「甘かった」故に起きたのが大坂の陣、というのは一面の真実だったと思うのだ。実際政宗なんかは、家康に秀頼の身柄を手元に置くよう何度か進言してるし。
2010-09-10 21:06:15
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@1059kanri
「旧家臣としてある程度豊臣家への介入を控えた家康に対し、義父という直接の「外戚」として強力な介入が予想される秀忠の存在、というのは豊臣家に取って驚異だったと思うのだよなー。あまり指摘されないけど。
2010-09-10 21:18:07
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@1059kanri
まあ家康が本当に豊臣家を政権の驚異だと思っていたのなら、慶長10年(1605)の秀忠の将軍宣下の時の、秀頼の上洛拒否の時点で攻め滅ぼしているか、そうでなくても、もっと強硬な介入を初めていると思うのだ。それがなかった以上家康が豊臣家を滅ぼしたがっていた、と言うのは無理がある
2010-09-10 21:25:11
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@1059kanri
@yougoha あくまで想像ですが、正規ルートとは別に、豊臣家の女官陣と繋がりのある江や家康側室のルートにも働きかけた、ということではないでしょうか。
2010-09-10 21:56:41