うちの親伝説・GHQ

終戦後の日本。占領軍GHQで働くことになる。そこで初めて触れる「本物のアメリカ」は父にとって衝撃的だった。 時代順では「うちの親伝説・芋倉」「うちの親伝説・渡米」よりも前に来ます。
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【GHQ70】ジョイス大尉は父が英文学を勉強していることを知ると、箱一杯の本を持ってきてくれた。箱には米軍支給の名作文庫が四十冊も入っていた。古い本だったが、父にとっては宝の山だった。その後、父がずっと大切にしていたそれらの本は、今も実家に数冊残っている。

2013-04-23 07:49:16
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【GHQ70/資料】ジョイス大意にもらった実物の本。よく見ると「ARMED SERVICES EDITION(軍隊支給用)」の表記があるのが分かる。父はこれらを半世紀以上、大切に読み返してきた。 http://t.co/EfuQJdZTS8

2013-04-23 07:50:35
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【GHQ71】父は必死に英語を読み、書き、話した。学校で文学を学び、GHQではスラングだらけの英語に浸った。復興只中の東京を駆け回り、できるだけ正確に日本人の言葉を米軍に伝えようと必死だった。そして、空いた時間は相変わらず家族と畑を耕した。

2013-04-23 07:51:04
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【GHQ72】ある大雨の日に困っていると、大尉が「学校まで送ってやろう」とわざわざジープに乗せてくれた。正門を入ってきた米軍のジープから降りた父に先生たちは度肝を抜かれる。先生が「君は二世か」と聞くと、父は慌ててしまい、思わず英語で「no」と答えた。(つづく)

2013-04-23 07:51:28
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【うちの親伝説・GHQ73】朝五時に起きて、深夜まで働く日々が何ヶ月と過ぎていった。ある時、大尉夫妻が房総半島へ釣り旅行に出かけることになり、「youも一緒にこないか」と父も誘われる。旅行などしたことのない父は戸惑ったが、せっかくなので承諾した。

2013-04-24 06:22:19
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【GHQ74】当時はガソリンをまだ自由に売買できない時代だったので、自家用車で旅行などというのは奇跡のような経験だった。ジョイス夫妻と一緒に千葉へ向かう車の中から見た景色を、父は今でも覚えているという。——復興していく日本の町の姿だった。

2013-04-24 06:22:36
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【GHQ75】山梨育ちの父は船に乗るのが初めてだったため、沖釣りで猛烈に酔った。でも、大尉にコツ(「自分が船を揺らしていると思え」)を教わってからはなんとか元気を取り戻し、初の海を楽しむことができた。――沖に出た時、大尉が忘れられない英語を教えてくれる。

2013-04-24 06:22:43
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【GHQ76】「We are now on an even keel.」父は大尉のその言葉を、すぐには意味を取れなかったが、宿に帰ってから辞書で調べた。keelは船の中心である「竜骨」。それが安定したことで、転じて「事がおさまる」という意味だった。(つづく)

2013-04-24 06:23:01
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【うちの親伝説・GHQ77】「on an even keel」――正にそうだった。父はやっと自分の人生、家族の人生がeven keelに乗ったことを感じ始めていた。もしかしたらあの諦めかけた夢をまた見てもいいのかもしれない。「十年かけてでもやれ」という叔父の言葉が脳裏をかすめた。

2013-04-25 06:42:18
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【GHQ78】しかし、時はまだ戦後。円をドルに換金する方法すらない時代。父にとってはまだまだ当面の心配は食料と、家族の生活の安定だった。――十分じゃないか。みんなが無事で、衣食住が揃っている。贅沢なことを考えてはダメだ。父は自分をそう戒めた。

2013-04-25 06:42:39
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【GHQ79】海から戻る帰り道、父は奇妙に自分が疲れていることに気付いた。慣れぬ船で疲労したのだろう。でも、大学卒業は間近に迫っている。休む余裕などなかった。とにかく日本中が必死に走っていた。自分も全力で走り続けることしか考えられなかった。(つづく)

2013-04-25 06:43:11
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【うちの親伝説・GHQ80】ちょうどその頃、農作業中にある出来事が起きた。父の父、つまり祖父が、ある時、畑の片隅にスイカの苗を植えた。それに気が付いた父は怒った。まだまだ食料が不足していた時代、スイカは贅沢品だった。水分だけで栄養がない。

2013-04-26 08:55:01
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【GHQ81】アメリカの合理主義が知らず知らず身についていたのかもしれない。父は祖父に言った。なぜ貴重な畑に贅沢品を植えるのかと。祖父は少し弱った声で「スイカが食べたかったんだ。ごめんよ」と答えた。

2013-04-26 08:55:17
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【GHQ82】父はその祖父のわがままが許せず、その場で苗を全部引き抜いた。そして、代わりにもっと汎用性のある野菜のかぼちゃを植えた。それが家族のためだと信じていた。祖父がその様子を哀しそうに後ろで見ていたが、気にしなかった。(つづく)

2013-04-26 08:55:39
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【うちの親伝説・GHQ83】やがて父は大手工業の下関支社に就職が決まる。しかし、GHQのみんなには引き留められた。一緒に捜査をしていた日系の捜査官からは「君はここにいるべきだ」と言われる。父もそうしたい気持ちはあった。でも、GHQはいずれなくなるのだ。

2013-04-27 03:26:41
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【GHQ84】大学卒業の日、証書を持ってGHQを尋ねると、職員がみんなで喜んでくれた。ジョイス大尉は卒業証書授与を英語でやってくれて「congratulations!」と握手を求めた。渡された卒業証書は逆さまだったが、嬉しかった。昭和25年9月――旧制大学最後の卒業だった。

2013-04-27 03:26:48
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【GHQ85(再・訂正)】その後、朝鮮戦争が勃発し、ジョイス大尉はいつの間にか日本を離れていった。父はいつかどこかで再会できると信じて、もらった本をずっと大事にしていたが、結局、その時が今生の別れとなった。ほかにも多くの兵士が戦地へと出向していった。(つづく)

2013-05-01 15:24:10
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【うちの親伝説・GHQ86】父は西日本重工業を尋ねたが、そこは今まで慣れ親しんだ「小さなアメリカ」とはまるで違っていた。未だ旧日本軍のような規律が罷り通り、理不尽な上司の命令が飛び交っていた。父はかつては疑問に思わなかったであろう、その光景に愕然とする。

2013-04-28 09:45:36
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【GHQ87】「君の仕事は契約にくる毛唐の接待をすることだ」と上司から告げられた。その「毛唐」という言葉に寒気を覚えた。「接待」という言葉にも後ろめたさを感じた。「毛唐」というひとくくりには、自分を大切にしてくれたたくさんの人々も含まれていた。

2013-04-28 09:46:01
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【GHQ88】疲れていた。体がやたらと疲れていた。敵国だったアメリカと、愛する祖国と、自由という言葉――ボブスレーの記事と穏やかな海、そして手に入れられなかった「羽」が頭の中をグルグルと回っていた。それでもお金は必要だった。守る家族がいた。(つづく)

2013-04-28 09:46:20
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【うちの親伝説・GHQ89】家に着く頃、体調は悪化していた。しかし、同時に父親の容体も悪いことを知った。尿毒症で倒れたのだという。兄弟の結婚が次々に決まり、家は祝福ムードでいっぱいだったが、父は祖父のスイカのことを思い出していた。

2013-04-29 06:41:55
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【GHQ90】あまりにも体調がひどいのを見かねて、父の母がかかりつけの先生を家に呼んで来た。先生の診断は深刻で、胸の病だということが判明した。安静にしなければ命に関わると言われ、父は目の前が真っ暗になった。長年の無理がすべて、ツケになって戻ってきていた。

2013-04-29 06:42:03
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【GHQ91】そんな中でも、家で結婚や卒業などを祝う慶事は続いた。御馳走はなんとか食べたものの、体がしんどくて横になっていた父を、突然飛び込んできた妹が起こした。妹は狂乱状態で「息子がいない」と叫んでいた。父が可愛がっていた甥っ子のことだった。(つづく)

2013-04-29 06:42:12
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【うちの親伝説・GHQ92】外は冬。日はすでに暮れて、気温は下がり始めていた。荒涼とした武蔵野の大地には冷たい風が吹き荒れていた。我が子のように可愛がっていた甥のことに、父は自分の体のことも忘れて、重たい体をひきずるようにして起き上がった。

2013-04-30 09:14:02
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【GHQ93】服を着る間も惜しんで家を出た。電話はない。もうすぐ気温が著しく落ちる。未だ森のような武蔵野では、子供が命を落とすことなど珍しくはなかった。寒い中、父は走った。旧陸軍経理学校(その時は自衛隊の幹部学校)の東門の守衛のところに向かった。

2013-04-30 09:14:10
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