- masakishibata
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てか、湯浅3代と関係者の生没年や家督相続を年表にしてみたけど、知りたいのは湯浅五助が大谷吉継に仕えた時期なので調べなくても1589年から1600年までの間くらいには絞り込めたんじゃないのか。
2013-01-22 20:59:431月29日
湯浅氏と尾張藩の関係に着目した考察。
そうそう、湯浅五助の孫・十兵衛は「尾張藩主・徳川光友に召し出され、尾張藩の附家老・竹腰正晴の同心となった」という記述があったのだが、それに矛盾というか疑問が湧いてきたので長々と呟くお。
2013-01-29 18:36:51湯浅十兵衛は岩槻藩主・高力忠房に仕えた後、徳川光友に召し出されて尾張藩に仕えたとされている。仕え始めた時期は1650年~1655年の間というのがわたしの推測。光友が尾張藩主になってから忠房が亡くなるまでの間だろうということで。しかし・・・
2013-01-29 18:37:51この高力忠房、1639年に徳川家光の命で肥前島原藩に移封されているのです。「高力忠房から徳川光友に召し出され」という記述に従うと十兵衛も島原に移ったものと考えられ、そこから10年以上も経ってわざわざ御三家の藩主が召し出すようなことがあるのかという疑問。
2013-01-29 18:38:32そこで考えたのが、もっと早い時期・・・1630年代には召し出されていたのではないかと。光友は1640年に従三位参議に叙せられるくらいには実績を積んでいるので、藩主になる前でもある程度の権限は持っていたと思うので。
2013-01-29 18:40:44で、ここからは推測。1639年、高力家の島原移封に際して尾張藩に召し出される→1650年、光友が尾張藩主に就任→当時16歳だった今尾藩主・竹腰正晴の補佐役に任じられる、という流れ。
2013-01-29 18:41:12十兵衛の生年が1620年代だと仮定すると年齢的には問題ない。尾張藩に10年仕えた実績があれば若い藩主の補佐役に任じられても不自然ではないだろう。まぁ、「同心」ということなので目付け役とかではなく、経験のある実務者として送り込まれたと思うのだが。
2013-01-29 18:42:07・・・あれ?湯浅五助の出自についての結論出てなくね?