心の消去主義or還元主義:心は人間の錯覚のようなものであり、物理的な現象or錯覚に帰するとする立場。これに違和感を覚える人がどれくらいいるのだろうか。
2010-09-13 17:28:10僕はチャーチランドの身もふたもない言い方が好きなのだが、心は昔における神のような錯覚であるという考え方にはそこまで違和感を覚えない。
2010-09-13 17:29:29@laughed00 心が実在しないというのは簡単だけれど、コップの実在とどう違うのかと言われると難しい問題になる。科学の出発点だって素朴な実在じゃないかと…。
2010-09-13 17:52:45@infobloga コップと心がどう違うかというと、科学的に存在していることを証明できるかどうかなのだと思います。科学の使い方が間違っているかもしれませんが。
2010-09-13 18:16:11@laughed00 科学に対する理解次第で次の議論は変わるけど、どちらでも同じだと思います。科学が立証プロセス等の社会的構築物だとすると、心が「ある」とする体系を否定できない。科学が素朴な経験に基づくとすると心も素朴に「ある」じゃないかという主張を否定できない。
2010-09-13 18:29:32@infobloga 前者は少し分からないのですが、後者については実証的な科学論者は現行科学の体系内で素朴な心が存在できない、むしろ対立することを問題にすると思います。
2010-09-13 18:34:14むしろ、素朴な実在はもっとも信じられる理論と対立しない限り信じられるんですかね。 コップの存在はテスト出来るけど心の存在はテストできないし。
2010-09-13 18:37:14@laughed00 最初にも書いたように、現代の科学の範囲で考えるのなら答えは簡単で、そこに疑問を抱く必要はないと思っています。科学を前提にせずに心を扱おうとするとき、難しい問題になります。ハイデガーの流れだったので、そういうことを言ってるのだと思いました。違ったら失礼。
2010-09-13 18:46:09@laughed00 こういう話だったら、見当違いのことを述べていたかも。→http://bit.ly/9ekby8 反対に、分析哲学者は自分たちの研究を、自然科学とつながるもの、あるいは自然科学に従属するものとさえ考えるのが普通である。
2010-09-13 19:46:07@infobloga 僕としては自然科学の基礎付けは必要と思っているのですが、多分チャーチランド達は基礎に自然科学を置いていると思います。心、主体のようなものは立証されて初めて意味をなすと思っているはずです。
2010-09-13 19:56:44