「万葉流転」を読みながら

以前、平安京提要を読んだとき、奈良時代についてもこういったご本があればなあと思っていたところ、「万葉流転」の存在を教えていただきました。 自分用の備忘録を兼ねて、読んでみての感想や頂いたリプライをまとめました。
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賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

「平安京提要」は分野ごとの章で、それぞれ研究者の方々の論考がまとめられ、概論として目にする時には「○×の影響があると考えられる」で片付けられている「○×の影響」の具体的な例が読み取れる書籍でした。そういった論説の根拠の部分は読み物にはなかなか現れないのでとても興味深かったです。

2013-05-20 00:25:14
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

「万葉流転」は、関根先生が先達の研究を引きながら、奈良時代を文化生活史的に解説されたご本で、奈良時代全体を鳥瞰しながら、具体的な遺物・文献の例を上げて解かれていて、読み物としてとても読みやすかったです。

2013-05-20 00:25:54
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

…が、経典や斉民要術(北魏の農業書)、北魏・隋・唐の令など、時代もジャンルも幅広い引用や比較対照があるので、専門の勉強をしていない私はつまづきっぱなしで、比較対照の方を調べはじめたらそちらが面白くて長々と脱線してしまったりしましたσ(^^;)。

2013-05-20 00:26:17
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

なんだか久しぶりにWikipediaを見まくった気がします。こういうときジャンルを問わず概論がまとめられ、出典も記され、さらにネットワークに乗っていれば即座に見れる有り難みを感じます。Wikipediaよありがとう。

2013-05-20 00:26:46
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

そして国際性ということではユーラシアを横断する広大な地理感覚で書かれています。これぞ!奈良時代!。

2013-05-20 00:26:57
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

新京(平城京)の候補地の選定と造営について。 岸俊男先生の論を引けば、平城京の京域は藤原京を基本とされている。藤原京の東端でもある中つ道はそのまま平城京の東端となり、また藤原京の西端である下つ道が平城京の朱雀大路となった。

2013-05-20 01:29:25
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

…えーと、僭越ながら付け加えますと、これは新益京の京域が大和三山の内側と考えられていた昭和57年の論説ということで。現在では新益京は大和三山を京域に含めていたと考えられているので、中つ道・下つ道が京極(東西の端)とは考えられていないかと。

2013-05-20 01:30:03
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

(゚ー゚*)。oO(ただ、新益京の外れがどのくらい居住区化されていたかは定かではないので、新益京では実質中つ道・下つ道が京極の様相だったかもしれないなどと想像)

2013-05-20 01:30:43
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

平城京の宮地の割り出しについて。 少し前TLで見かけた「平城京造営のため古墳群を移転」云々ですが、京域の中でも宮城建造地の選定に関わることで、個人的にも興味のある場所(佐保・佐紀)なので特筆しておきます。

2013-05-20 01:31:26
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

ちなみに遷都に当たって先人の墓地を移転する例は後世にもありましたし、史書に記録がなくても、これ以前にもあったであろうこと、元明帝は工事に当たって、敬意を持って祭祀を行い改葬するよう勅していることを付け加えておきます。

2013-05-20 01:32:39
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

和銅三年の元明の遷都候補地行幸の後、菅原の住民九十余家が移転している。 現在も平城宮跡の西南辺に菅原の地名が残るが、当時は奈良山の山裾の丘陵地で、佐紀楯列古墳群から連なる古墳が存在する付近一帯が菅原と呼ばれ、移転させられた住民の多くはその古墳の造営に従事していた土師氏の民だった。

2013-05-20 01:34:57
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

(゚ー゚*)。oO(…この土師氏がどこへ移転したのか、とっても気になるところです。東南に隣接する佐保郡の田邑里?)

2013-05-20 01:35:28
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

関根先生はなぜこの古墳群を避けて、新京の北辺を南下させることをしなかったのかについて、交通路と宮城の位置関係で述べられています。

2013-05-20 01:36:05
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

遷都以前から春日野は人で賑わう場所であり、その春日野から暗峠(生駒山)を越えて難波へ出る東西の古道が存在していたのだろう。

2013-05-20 01:36:49
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

この東西の交通路は、古来から奈良盆地北部に勢力のあった和珥氏や土師氏が利用していた道で、頻繁に人の往来するこの道が宮城前を通らないよう、まず宮地の南限が定められたのだろう。

2013-05-20 01:37:47
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

これによって自ずと京域の北辺が定まり、古墳も建設予定地に含まれることになったのではないか。同様に、やはり古くから奈良盆地を南北に通る要路である上つ道を避けて宮城の東辺が定められたのではないか。 すなわち上つ道は七坊大路となり、東西の道は三条通りとなった。

2013-05-20 01:38:56
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

また、この七坊大路と三条通りが接する地を交通の要所として、ここから北東の丘陵地が不比等によって興福寺と春日大社の予定地として押さえられたのだろう。

2013-05-20 01:39:22
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

遷都以前から春日野が殷賑の地だった、という説はとても興味深いです。 佐保の御笠山付近の地名がいつ頃から「かすが」と呼ばれていたかの疑問は、阿倍仲麻呂の歌と、万葉集巻六の詞書きの「右神龜四年正月 數王子及諸臣子等 集於春日野而作打毬之樂」からでした。これについてはまたの機会に。

2013-05-20 01:40:50
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

また宮地の位置が定まった一因には、宮城を支える水源として現在も残る水上池の利用が必要とされたこともあるだろう。未確認ではあるが、水上池については若草山の奥から水路が引かれた痕跡があると伝えられる。

2013-05-20 01:42:02
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

…ここを読んだときには「あ~」とか「わ~」とか叫んじゃいましたσ(^^;)。若草山の奥って、どこですか~。隣接している春日山原始林のことでしょうか~?。

2013-05-20 01:42:39
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

造営のために徴発された役夫は徒歩で造営中の京へとやってきた。畿内から平城京まで約七日間、東海道、東山道諸国からは二十日~二十五日間、陸奥から平城京までは五十日間かかった。

2013-05-20 01:50:34
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

…後の運脚も同じだけの日数がかかったことでしょう。そりゃ神護景雲年間に調の献上が採算に合わず困ると陸奥国が言上するのも無理ないですね。

2013-05-20 01:51:40
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

この言上で陸奥の調は10年に一度と改められますが、陸奥国を初めとして坂東諸国は奈良~平安初期を通じて、争乱のある度に調庸を減じられているので、実際に納める義務は案外少なかったのかもしれません。

2013-05-20 01:52:22
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

深夜を選んで、万葉流転を読みながら興味を引かれたことのメモ+感想をちょっとづつ。連続ポストなので、煩かったらリムーブしてください。

2013-05-21 00:14:34
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