「万葉流転」を読みながら
- k_h_musume
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外京について。 下つ道を朱雀大路として都の条・坊は構成されたが、興福寺の造立と飛鳥寺の移転先(現・元興寺)を京内とする形で東京極の北部が上つ道まで拡張され、これが外京となったと考えられる。
2013-05-21 00:15:24条坊制にも現れる八と九の数字が象徴するものについて。 八は地を表す陰の極数であり、九は天を表す陽の極数であり、南北を九で、東西を八で区分したのではないか。
2013-05-21 00:15:58…この章では国の数、官制、経文の文字数など、様々に検証されていてとても面白かったです。十七条憲法の十七は八+九=の十七とか(*´∇`*)。
2013-05-21 00:18:18平城宮の構造について。 発掘調査が進むまでは四坊=方八町と考えられていたが、調査によって左京一坊大路が北へ抜けていないことが判明した。 …これが東院地区ですね。
2013-05-21 00:19:40宮の周囲は、基底部の幅3.6m高さ6mの瓦葺きの大垣に囲まれ、さらに幅10mの平坦地を置いて幅2~3mの堀が巡らされていた。…これは火災対策もあるように感じます。
2013-05-21 00:21:19深夜を選んで、万葉流転を読みながら興味を引かれたことのメモ+感想をちょっとづつ。連続ポストなので、煩かったらリムーブしてください。
2013-05-21 23:53:53平城宮朝堂の構造は、年代によってかなり違い、出版時よりさらに調査が進んで判明した事柄もあるので、感想を交えてサワリだけ。
2013-05-21 23:54:55宮の中は、大きく分けて南から、礎石敷き・瓦葺き・丹塗りの殿舎が並ぶ朝堂、掘立柱・檜皮葺き・白木造の内裏、その両側に立ち並ぶ八省の官庁という構造だった。この一連の建造物群の遺構が平城宮の中に二箇所存在する。
2013-05-21 23:55:45…西朝堂(第一次朝堂院)と東朝堂(第二次朝堂院)ですね。老婆心ながら、構造上も機能上も朝堂院は大極殿・大極殿院を含めて考えるということをちょっと強調させてください。
2013-05-21 23:56:20平城宮は機能していた期間に、幾度か大きくその姿を変えています。内裏も位置こそ変わらなかったようですが、頻繁な改修の跡が検出されているそうですし、東院地区はそれこそ年代で利用目的が大きく違ったのではないでしょうか。
2013-05-21 23:56:56まつりごとの場が和銅遷都時の西朝堂(第一次朝堂院)から東朝堂(第二次朝堂院)へ移行した時期についても、聖武帝即位に当たってという説や、いわゆる「聖武帝の放浪」の後という説も有るようです。
2013-05-21 23:57:34…この推移はとても興味のあるところです。東朝堂の遺構の下層に大型の建造物の遺構があり、これが続日本紀に名前が残る大安殿だという説もあるとか。
2013-05-21 23:58:00宮ごとの変遷について。藤原宮、平城宮、平安宮の朝堂院を比較すると、時代に応じた変遷を見ることができる。 実際の執務の場だった朝堂院は、独立した官衙で執務が行われるようになると、儀式の場として使用されるようになる。
2013-05-21 23:59:04従って朝堂院全体は小型化していくが、大極殿は正面観が大きく立派になっていく。 …平城宮西朝堂(第一次朝堂院)と東朝堂(第二次朝堂院)では、その様相がかなり違うことから、この間に、既に機能も利用目的も変遷していたことが窺えると感じます。
2013-05-21 23:59:33平城宮の東院地区について。文献に残る東院は称徳朝に多く見られるが、築地の状態、藤原宮の瓦の転用、東一坊大路に南面する門の造営が神亀年間に遡ることなどから、東院地区の成立は平城宮造営初期と推定される。
2013-05-22 00:00:20特に東院地区から二坊坊間大路を挟んで不比等邸(現在の法華寺)であることから、この区画は首皇太子の居所として拡張されたのだろう。…安宿媛が皇后になる前は、皇太子が不比等邸に通ったと考えていいのでしょうか(゚ー゚*?)。←そう考えてる人がここに一人
2013-05-22 00:01:31…この辺りが坂上里なんですよね~。大伴坂上娘女もこの辺りで生まれたか、住んでいたか。そして東漢坂上直氏も或いは…。
2013-05-22 00:02:01なんとなく、ですが、平城京の外京地区と平城宮の東院地区の形状は、後世から見たとき結果的に不比等がその影響力を誇示しているようにも感じられます。実際には必要があって京域なり宮域を拡張した結果なのかもしれないのですが…。
2013-05-22 00:02:25…不比等邸の逸話で、平城遷都後、まだ建造中だった不比等邸の母屋の新造祝いの宴に、元明が臨席して首皇太子が舞を舞い、不比等は横刀を奉ったという話。続日本紀のここを読むたびに、もしやこれを前例に阿倍が五節を舞った?って思ったり。
2013-05-22 00:03:04八省の官庁について。各官庁建物の多くは掘立柱・切妻屋根・檜皮葺きの構造で、同一の規格の材で造られたようである。融通性を持たせるために、建材を伐り出すときに一定の計算のもとに切られたことが窺える。
2013-05-22 00:03:58…実際に運用が始まってみれば律令制度における実務は、どんどん増えて様変わりしたのだろうなあと想像してます。実際の職掌に合ったものを、となる過程では、移設しやすいことが優先されたのでしょうか。
2013-05-22 00:07:21ちょうど田祖の話題が出たので、万葉流転を読みながら興味を引かれたことのメモ+感想をちょっとだけ。連続ポストなので、煩かったらリムーブしてください。
2013-05-23 23:08:15