【足利氏の祖】頭殿、足利義康(源義康)を語る【命日企画】
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某大河の第19回鳥羽院の遺言では、
後白河天皇爆誕→滋子殿登場で平家ファミリーギャグ→大蔵合戦が2分で終了→髭切りが義朝さまの手に&為義お父上との断絶(襖の陰から軽蔑した目の鬼武者=頼朝さま)→即位の宴に崇徳上皇より「あなにくし」→鳥羽院崩御につき駆けつけた崇徳上皇が清盛に追い返されて…
次回、保元の乱!
…ということでこのエピはスルーでしたな。
まあ、あれは清盛と俺に主軸を置いた作品だったから…。他に原因があるとすれば、「保元物語」に義康が率いた軍勢の戦闘の様子が一切描写されてないから…かな。 RT @yk_ashikaga: 何故、平清盛に出られんかったんだ、父上…!? RT
2013-05-29 22:15:16空気すぎるもんなぁ、父上。"@yoshitomo_kzs: まあ、あれは清盛と俺に主軸を置いた作品だったから…。他に原因があるとすれば、「保元物語」に義康が率いた軍勢の戦闘の様子が一切描写されてないから…かな。 RT @義兼: 何故、平清盛に出られんかったんだ、父上…!? RT"
2013-05-29 22:17:04ちなみに保元・平治の乱の頃の新田義重の動きは、本当に謎。立ち位置的には勝者の側にいるのだが、実際に何をしたのかといわれると何も伝わっていない。義康殿より空気です。 RT
2013-05-29 22:24:11うむむ。保元の乱の時期は新田荘成立時期とカブるので、義重は在地で忙しくしていたんでしょう。
義康は京・義重は在地、と兄弟で役割分担をしていたようですしな。(義顕)
さて、次は保元の乱…といきたいところだが、その前に俺と義康の同盟が成立した理由について説明しよう。俺の正妻が藤原季範の娘、いわゆる由良御前であることは、フォロワーならご存じだと思う。実は、義康も藤原季範の娘(厳密に言えば養女。実は季範の孫娘!)を妻としているのだ。
2013-05-29 22:25:07前記のように義康と俺が相聟となったこと、更には下野(義国・義康)と相模(俺)の両源氏勢力の衝突を危惧した河内経国の調停により、両者の同盟関係が成立した。
2013-05-29 22:36:07【河内経国とは】河内源氏四代目当主だった源義忠の嫡男である。義家公に幼名「源太」を与えられ、次代当主として期待されていたが、父である義忠が暗殺されると、家督を継いだ為義(俺の父)に屋敷を追い出されてしまう。その後は叔父の義国に引き取られ、下野で暮らした。
2013-05-29 22:42:58ちなみに、この河内経国という人物は、保元の乱の際には俺の随兵として参加している。この時も源氏の分裂を防ぐために父上(為義)を説得しようと努力したようだが、悲しきかな、彼の活動は徒労に終わってしまった。
2013-05-29 22:46:32河内経国は、ええと児玉経行の娘を正室としている。つまり義平さまの乳母である「乳母御所」と繋がるわけで。この辺、大蔵合戦前に源氏同士(除く義賢)の相克を治めた役割になるのでは……ないのかな。父上のが詳しいんだが、この辺。>RT
2013-05-29 22:52:54あ、調停の話題は義朝さまが書いてらしたな。乳母御前とか児玉党の話題とか系図は父上の以前語った大蔵合戦まとめに少し触れている> http://t.co/EWXPzyzfub
2013-05-29 22:56:10重忠の曾祖父にあたる秩父重綱が迎えた児玉行経娘が、義平さまの乳母(乳母御前)であり、私は三浦義明殿の娘(義平さまの姉)を正室に迎えていた。そこで叔父上・秩父重隆の家督相続に関する利害が一致し、義朝さま(義平さま)、三浦党、児玉党と結んでの大蔵合戦が起きるのだ。
ややこしいよな、私もたまに説明できなくなる(重能)
まず、状況を説明さないと本文に入れないから(震え声)。 "@yoshitomo_kzs: 義康語りをしているはずなのに、つい義康周辺の人物について長々と話してしまう(苦笑) さ、気を取り直して次!"
2013-05-29 22:51:27そ、そうそう…(震え声) RT @yk_ashikaga: まず、状況を説明さないと本文に入れないから(震え声)。 "@義朝: 義康語りをしているはずなのに、つい義康周辺の人物について長々と話してしまう(苦笑) さ、気を取り直して次!"
2013-05-29 22:56:01いい加減本筋に戻ろう。鳥羽院の死後、崇徳上皇と後白河天皇の対立に武家勢力が結びついて保元の乱が勃発する。義康は後白河天皇側に参陣し、100騎の兵を従えて天皇方の主力として活躍したとされる。ただし、「保元物語」には彼の軍勢の様子が描写されてないため、戦闘の様子を知ることは出来ない。
2013-05-29 23:09:10義康があまり有名でないのは、この辺りが原因なのかもな。八郎の矢を見て退散してしまったとはいえ、清盛の姿はしっかりと戦場の場面に登場しているし、俺の戦場での動きもそれなりに描写されているし。
2013-05-29 23:13:54畠山家は大蔵合戦の後は秩父党の中の力関係の移動、それによる不安定要素(実際、秩父党と新田の争いは起きるし)で、保元・平治ともに直接兵を出せていないのだよね。でも実質は討取った秩父重隆んちの河越重頼兄弟なんかを派遣しているわけだが。平治の乱までの間は実質秩父党の中心だし。
2013-05-29 23:17:09乱が終結した後は、勅命に従って大江山で崇徳上皇方(いわゆる新院方)の武将・平家弘とその息子の光弘を処刑している。叔父を斬った清盛、親兄弟を斬った俺に比べるとかなり…いやなんでもない。
2013-05-29 23:18:40