【足利氏の祖】頭殿、足利義康(源義康)を語る【命日企画】

義朝さまが盟友、足利義康殿のご紹介をしております。 (まだ編集中でございます、完成したら改めてお知らせしますね)※畠山重忠の父、重能が解説に加わっています
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源 義朝 @yoshitomo_kzs

今日は義兼の父であり、俺の盟友でもあった足利義康(源義康)の命日だな。義兼が何も準備していないとのことなので、俺の方から義康のことをざっくりと紹介しようと思う。

2013-05-29 21:36:42
足利義兼だがね @yk_ashikaga

おぉ…義朝さん、すいません! ありがとうございます! "@yoshitomo_kzs: 今日は義兼の父であり、俺の盟友でもあった足利義康(源義康)の命日だな。義兼が何も準備していないとのことなので、俺の方から義康のことをざっくりと紹介しようと思う。"

2013-05-29 21:43:38

義朝さまが盟友と呼ぶ理由:義康殿は義朝さまと同流の河内源氏であり、共に北面武士として鳥羽院に仕え、その崩御後の保元の乱でも軍勢を出し共に戦った間柄。詳細は語りの中で紹介されるが、昨年の大河では由良殿を義朝さまが娶った時期から保元の乱まで、相国入道についで義朝さまとの絡みがあっても不思議は無い御方だったな。(重能)

源 義朝 @yoshitomo_kzs

義康が生まれたのは大治2年(1127年)。父は八幡太郎義家公の四男、源義国であり、母は信濃守源有房の娘だった。次男だったといわれているが、三男だという説も存在する。彼は次男(もしくは三男)でありながら、父義国が開墾した下野国の足利荘を継承した。

2013-05-29 21:38:11
源 義朝 @yoshitomo_kzs

なお、義国の長男義重は、父と共に上野国に新田荘を開墾し、新田氏の祖となる。開墾にあたって、彼らは武蔵国の秩父氏、そして俺の弟の源義賢と緊張関係に陥った。その一方で、義重の娘、祥寿姫を義平の室とし、俺や義平とは提携関係にあった。

2013-05-29 21:40:16
源 義朝 @yoshitomo_kzs

その後、新田荘は藤原忠雅(花山院家出身の公家。平清盛と懇意にあった)を領家として立券に成功する。これにより、義重は新田荘司を称するようになった。保元2年(1157年)の出来事である。

2013-05-29 21:41:58
源 義朝 @yoshitomo_kzs

この後、新田氏は秩父氏や藤姓足利氏と武力衝突することになるんだが…。まあ、この辺りの話は秩父党や新田の面々に任せようと思う。今日は義康のことを語るのがメインだからな。

2013-05-29 21:42:41
畠山重忠 @Shigetada_bot

私も生まれる前だが、保元二年に秩父足利合戦というのが渡良瀬川であったり、しているんだな。秩父党と言っても、畠山氏はこれには関与していない。>RT

2013-05-29 21:51:12
新田義顕@金ヶ崎 @yoshiaki_nt

@Shigetada_bot あれ?新田家と喧嘩したんでしたっけ?(この辺知識が怪しい)

2013-05-29 23:27:53
畠山重忠 @Shigetada_bot

@yoshiaki_nt 秩父足利合戦というのが保元二年にあってな。藤姓足利氏と秩父氏の連合軍vs新田氏というやつ。父上に聞かないとわからんが、源家との関係や大蔵合戦で秩父宗家を討った直後でもあり畠山家は秩父党側には加担していない。新田との提携関係が出来ていたはず。

2013-05-29 23:36:01

調べてみると、確かに私の持っている本にも「秩父足利合戦」の記述がありましたな。(年代は不明)
この元ネタは、『源平盛衰記』や『平家物語』にあるのですが、それによると藤姓足利氏が新田義重と組んで、秩父党と戦したことが語られています。
ん? 記述がびみょーに違う…??すいませんこれ以上のことはワカリマセンデシタ…。

ただ当初協力関係にあった藤姓足利氏と新田氏は、在地支配をめぐって徐々に敵対関係に移行したようです。『吾妻鏡』によると仁安年間(1166~1169)に藤姓足利氏から没収された足利荘が、一時義重の手に渡ったことが記されているので、この時期には対立は決定的になっていたでしょうな。(義顕)

畠山重忠 @Shigetada_bot

秩父足利合戦での秩父同族間の微妙な立ち位置の違いは、大蔵合戦のほんの二年後である事(大蔵合戦は秩父宗家であるはずの秩父重隆を、義朝さまや三浦と組んだ私の父上が討った)が、雄弁に語っているところだろう。

2013-05-29 21:55:53

当時の北関東は、八幡太郎義家さまの弟君の義光(常陸=佐竹氏の祖)、義家さまご子息の義国(上野=新田氏、下野=足利氏)、そして南関東と上総に義朝さまという源家の勢力分布があってな。古くからの在地勢力との関係性が複雑に絡み合っていた。義賢殿が秩父氏の養君として入り、緊張が高まり起こったのが大蔵合戦(久寿二/1155年)だな。(重能)

源 義朝 @yoshitomo_kzs

さて、話を戻そう。義康が義国から継承した足利荘を拠点とした子孫たちが、後に「足利氏」として力を付けていくこととなる。義康が足利氏の祖とされるのはこういった理由からである。ただし、注意すべきことが一つ。(次のツイートへ続く)

2013-05-29 21:44:06
源 義朝 @yoshitomo_kzs

Wikipediaには「父義国から藤姓足利氏の割拠する下野国足利荘を相続し、足利氏を称した。」 とあるが、同時代の(←ここ重要)史料には彼は「源義康」と記されており、「足利義康」と書かれているものは(あくまで俺が知る限りで、だが)存在しない。

2013-05-29 21:46:40
源 義朝 @yoshitomo_kzs

このことから考えられることは、当時義康は足利姓を名乗っていなかった可能性がある、ということである。「足利氏の始祖・足利義康」という概念は後世の子孫によって生み出されたものであるということも十分に有り得ることかもしれない。まあ、参考程度に一応知っておいて欲しい。

2013-05-29 21:51:56
源 義朝 @yoshitomo_kzs

さて、次は義康と鳥羽院の関係性について話してみようか。両者の関係は、義康が安楽寿院に足利荘を寄進したことから始まる。安楽寿院とは、鳥羽院が上皇だった頃に建立した寺院であり、寄進によって足利荘の本所となった。また、義康は足利荘の下司となった。

2013-05-29 21:53:24
源 義朝 @yoshitomo_kzs

その後、義康が上洛すると、足利荘を寄進したことがきっかけとなり、鳥羽上皇によって北面の武士に取り立てられた。更に、彼は蔵人や検非違使、そして陸奥守に任じられることとなった。『保元物語』で「陸奥新判官義康」と記されているのは、彼が検非違使と陸奥守の官職に就いていたことに由来する。

2013-05-29 21:54:48
足利義兼だがね @yk_ashikaga

義康:陸奥なんて行った事ねぇけどな。 RT

2013-05-29 21:56:33

まあ、国司になったからといって現地に行くとは限らないからな。時期的に現地では藤原基衡が押領使で毛越寺の伽藍建ててる頃か。(重能)

ニッチ @wasanbonsyotou

八幡太郎義家って誰だよって方の為に補足するなら、源氏の東国進出に大きく貢献した人物です、とだけ。

2013-05-29 21:56:09

ここまで読んでて八幡太郎義家と言われて誰? と言う人はググってくださいと。源氏、そして東国や奥州の中世に多大なる影響を及ぼした方ですから。基本すぎるので説明はここでしません。(重忠)

源 義朝 @yoshitomo_kzs

鳥羽院が義康を厚く信任していたことを示す1つのエピソードがある。それは、病に倒れ、死期が迫っていた鳥羽院が遺言として特に信頼のおける五人の武士の名前を書き残したのだが、その中に義康の名前があったということである。 五人の武士とは、源義康、平信兼、源頼政、平実俊、そして俺。

2013-05-29 22:08:21
源 義朝 @yoshitomo_kzs

某K盛さんの名前はありません。

2013-05-29 22:09:10
畠山重忠 @Shigetada_bot

昨年の大河で「鳥羽院の遺言」回がありましたな……平信兼は大掾氏、平実俊は…下毛野氏の関係でしたかな。どちらも官位は持っていたが高くなく、鳥羽法皇の書き遺したこの選びは他の三名はさておき、身分でなく選んだのか。まあ大河ではひとかけらも出てきませんでしたよね。>RT

2013-05-29 22:33:06