徳川慶喜と会津藩主松平容保に置き去りにされた人々はどうしたか

佐藤さんが会津のT.K.さんに教わってた内容が興味深かったので、あとで読もうとまとめておきました。メモ。
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T.K. fukushimaタグ付けよう @aizujin_k

しかし、越後三国峠における小出衆や寺泊(桑名領)の観音村、南会津の田島村のように会津軍に協力し命がけで戦った民衆も多くいたのです。

2013-06-10 23:19:41
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また、長州藩のような農兵の養成組織化には遅れをとり、有効な戦力と葉できませんでしたが、肝煎(庄屋)層は最後まで会津藩に協力し篭城戦いに際しても、不足する食料集めと運び込みに協力しています。

2013-06-10 23:25:37
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ドラマにも登場する八重の親友日向ユキは、開城後、小田の肝煎の家にしばらく世話になっていますが、それも、庄屋階層が一貫して藩にシンパシーを抱いていた査証の一つといえると思います。

2013-06-10 23:31:29
T.K. fukushimaタグ付けよう @aizujin_k

訂正:日向ユキが身を寄せたのは、小田ではなく、御山(現在の会津若松市門田町御山付近)の肝煎、栗城家でした。また、開城後ではなく(篭城しなかったので)戦火を逃れて匿われた形です。

2013-06-10 23:49:49