城郭話

城郭についての話。五稜郭編。
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土方歳三 @fukucho_Hijikat

さてと…。戻った。人も少ない内にTLをテロの如く染めてくぞ。苦手な者はミュートなりブロックなりして対策を立ててくれ。

2013-06-20 20:38:18
土方歳三 @fukucho_Hijikat

そうだな…じゃ、これで。今考えた。ツッコミは受け付けねえんで宜しく。 #城郭話_五稜郭

2013-06-20 20:43:19
土方歳三 @fukucho_Hijikat

五稜郭は正式名称を『箱館御役所』。柳野城とも言う。五稜郭というのは俗称で、長野県佐久市にある龍岡城も五稜郭と呼ばれるが、だいたい五稜郭と言えば凾館の五稜郭というのが認識としては多いんじゃねえかと。#城郭話_五稜郭

2013-06-20 20:45:25
土方歳三 @fukucho_Hijikat

タグにもある通り、五稜郭の城郭の構成とそれを設計した武田斐三郎という人物について話しをする。城郭話は女子にゃ退屈かもしれねえが結構面白いと思う。俺が。なんで気にせず話すぞ。#城郭話_五稜郭

2013-06-20 20:48:41
土方歳三 @fukucho_Hijikat

ぺリーが来日した時、日本は鎖国状態の真っ只中だった。ペリーは幕府に対し、鎖国の解除を求め、色々と折衝交渉の後、日米和親条約締結。その時の条約で函館と下田、2つの港に外国船入港を許可を下した。#城郭話_五稜郭

2013-06-20 20:50:02
土方歳三 @fukucho_Hijikat

以来、箱館は貿易港としての機能を持ち、外国船は勿論、諸外国からの影響を受け、その文化も色々と入ってきた。そこで幕府はそういった外国との交渉や話し合い、箱舘の治安維持の為の機関『箱舘奉行所』を設置した。#城郭話_五稜郭

2013-06-20 20:51:00
土方歳三 @fukucho_Hijikat

箱舘奉行所は五稜郭の中に置かれていた。箱館奉行所のその他の役目も色々とあった。例を挙げれば、箱舘を中心に蝦夷地全域とアイヌ民族の統治、箱舘開港に伴った対外関係の調整、蝦夷地の海岸防備等だな。#城郭話_五稜郭

2013-06-20 20:52:34
土方歳三 @fukucho_Hijikat

開港地として、西洋の技術や文化、産業や事業の振興に努め、江戸から遠く離れたこの地でもそこに暮らす者達の生活に困らないよう色んな事業や産業の開拓、普及にも務めた。 #城郭話_五稜郭

2013-06-20 20:54:33
土方歳三 @fukucho_Hijikat

屯田農兵による農地の開拓、七重薬園での薬草や林業の推進、肥沃な大地と広さを活かした牧畜、造船、各種鉱山の開発や製鉄事業などがそれにあたる。#城郭話_五稜郭

2013-06-20 20:56:15
土方歳三 @fukucho_Hijikat

その箱館奉行所の中に、箱舘諸術調所…今で言う学校みてえなモンだな。そういう機関を設ける事で、西欧の学問や技術を習得の授受、人材育成を図る目的の環境を作った。そこで身分問わず門戸を広く開き、学びを得る為に各地から様々な者達が集った。#城郭話_五稜郭

2013-06-20 20:58:16
土方歳三 @fukucho_Hijikat

箱館は江戸から遠く離れちゃいたが、土地の利を活かし、内部の文化や産業を発展させて充実を図られ、活気ある場所になっていった。 #城郭話_五稜郭

2013-06-20 21:01:00
土方歳三 @fukucho_Hijikat

そういう活動の拠点とも言えた五稜郭、箱館奉行所。構造も当時にしちゃ珍しい造りをしているのは知っての通りかと思うが、設計者は武田斐三郎(たけだあやさぶろう)。後に慶応義塾大学より先に箱館に大学も作り、後年には陸軍士官学校を作った人物だ。#城郭話_五稜郭

2013-06-20 21:02:26
斎藤一 @Hazime_Saitou_

土方さんの凾館話を立ち聞き中。武田斐三郎さん、名前は知っていたけど何した人かわからなかったから、勉強になるなぁ。 #隊務終わってません

2013-06-20 21:06:25
土方歳三 @fukucho_Hijikat

先祖は甲斐武田氏の出らしい。武田の城郭技術も有名だな。文政10年(1827年)9月15日、伊予大洲藩士武田敬忠の第二子として生まれた。最初は詩を学び医学を修めた。やがて大阪に上り緒方洪庵に就いて蘭学を学び、その後江戸に出て佐久間象山などに師事し、見聞と知識を得た。#城郭話_五稜郭

2013-06-20 21:06:55
斎藤一 @Hazime_Saitou_

ああ、武田斐三郎って名前、なんか違和感あるなと思ったら 甲斐の武田信玄の文字がちらほら見えるからだったのか(笑) すごく納得。

2013-06-20 21:09:57
土方歳三 @fukucho_Hijikat

文人で蘭学にも秀で、緒方洪庵の適塾で塾頭まで務めた。斐三郎が適塾を出た後、入れ違いに福沢諭吉が適塾に入っているぞ。そして、ペリー来航の折は師の佐久間象山に連れられ、吉田松陰らと共に浦賀まで行って黒船を見て『三浦見聞記』を著した。25歳の時だそうだ。素直に感心した。#城郭話_五稜郭

2013-06-20 21:11:16
市村鉄之助 @Ichimura_1854

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2013-06-20 21:12:13
土方歳三 @fukucho_Hijikat

その才を幕府に買われ、出仕命令が出る。その後も英仏二国についても深く学び、特に航海、築城、造兵の料目に励んだ。嘉永6年、ペリーが浦賀に来航した際、出向いて調査し、その後幕府から蝦夷地出張を命じられペリーとの外交調整を担う複数の調整員団の中の一人になって活躍。#城郭話_五稜郭

2013-06-20 21:13:43
土方歳三 @fukucho_Hijikat

後に幕府から蝦夷地直轄、箱館詰を命じられる。そこで器械、弾薬製造の任務を命じられ着手。海からの諸外国等の攻撃に備え、箱館の沿岸防御機能向上の為、五稜郭の設計・築造。また新撰組に縁ある、あの弁天台場も武田斐三郎によって設計された。 #城郭話_五稜郭

2013-06-20 21:18:30
土方歳三 @fukucho_Hijikat

人材育成の為、諸術調所を計画。後に諸術調所が箱館に設置された時、武田斐三郎はその教授役になって教鞭を取り、その門下生に山尾庸三、前島密、井上勝、蛯子末次郎、水野行敏、今井兼輔などがいる。榎本さんもそこに居たとか居ないとか…。 #城郭話_五稜郭

2013-06-20 21:20:52
土方歳三 @fukucho_Hijikat

日本初の洋船「箱館丸」に乗り込み、門下生を率いて航海に出てその技術を実践させた。『亀田丸』じゃ、航海測量をしながら露領・ニコライスキーという所に行って交易の実践を兼ねた日本初の修学旅行を行なったのもこの武田斐三郎らしい。#城郭話_五稜郭

2013-06-20 21:22:36
土方歳三 @fukucho_Hijikat

その後11年間を箱舘で人材育成に尽力して、元治元年に江戸に帰参。その後江戸開成所教授となった。開成所ってのは、幕府の洋学教育研究機関の事だ。そこで開成所教授、大砲製造所頭取に任じられた。#城郭話_五稜郭

2013-06-20 21:24:25