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水野 亮(3) @drawinghell
1)ここ一、二年折に触れて「作品と作者の言葉」または「作者による作品の説明」をテーマに考察を繰り広げTLを汚してきた。しかしようやくその疑問(あるいはここ十年ほど自分自身の問題として考えてきた作品と言葉にまつわる疑問)に、ひとつの解答が出せたような気がする。
水野 亮(3) @drawinghell
2)その契機となったのは「作品を見ること」とは即ち「<ここにはいない者>の声を聞くこと」なのではないかという気付きだった。そこから導かれたのが、「作品」の概念は受け手の「倫理」によって決定されるのではないかという仮説である。
水野 亮(3) @drawinghell
3)詳しく説明しよう。例えば目の前に何の変哲もない段ボールの箱が一つ置かれていたとする。自分はこれを「作品」として見ることもできるし、ただの段ボールの箱として見ることもできる。この差はどこより来るのか。
水野 亮(3) @drawinghell
4)まず主観(内的価値)とは別に、それが自分以外の人間によって「作品」として意味付けられているか否かという「外的価値」が存在する。例えばある美術家がその箱を自分の作品としてそこに設置したとか、それが置かれている場所が展覧会場であるといった非主観的な「事実」だ。
水野 亮(3) @drawinghell
5)外的価値は自分がそれを「作品」として認識するか否かという内的価値を決定する為の判断材料になる。しかしどんな外的価値を示されようとも「俺には作品には見えん!」と突っ撥ねることはできる。最終的にそれを「作品」として受け止めるか否かは受け手の判断にかかっているのだ。
水野 亮(3) @drawinghell
6)受け手がその箱を「作品」として認めたとき、直前まで「ただの段ボールの箱」だったものが次の瞬間には「作品」となる。つまりは受け手のなかで「内的価値」が生まれたのである。このとき起こっていることはなにか?
水野 亮(3) @drawinghell
7)まず考えられる変化は、受け手がその物のなかに「作者」の存在を見ることだろう。ここで繰り返し思考してきたことだが、「作品」と「作者」の概念は切り離せない。それが「作品」であると認めるということは、そこに「作者」の存在が秘められていると認めることと同義なのである。
水野 亮(3) @drawinghell
8)ではある物に「作者」の存在を認めたとき、我々がすることは何か。それは彼/彼女が作品に籠めた意図や思いをそこから読み取ろうとすることだろう。(作者の「技巧」をこそ見出そうとする場合も考えられるが、その視線はそれが「作品」であるか否かを検討する過程の視線とも同種である。)
水野 亮(3) @drawinghell
9)我々が作品から「作者」の意図や思いを読み取ろうとする場合、重要となるのが「倫理」である。我々はそれをできるだけ「正しく」読み取ろうとしなければならない。なぜならばその「正しく」読み取ろうとする姿勢こそが、「作品」の概念を辛うじて成立させるものだからだ。
水野 亮(3) @drawinghell
10)注意しなければならないのは、ここで言うのはあくまで「姿勢」の問題だということだ。つまりそこから読み取るものが本当に作者の意図か否かは関係ないのである。重要なのは受け手がそこに作者の意図や思いが託されていると考え、それを「正しく」読み取ろうと努めることなのだ。
水野 亮(3) @drawinghell
11)もし受け手がそこから読み取る解釈を自分の任意で勝手にできると考えるならば、それはもう「作品」の概念から外れてしまうのである。それが「作品」とロールシャッハの沁みの違いなのだ。
水野 亮(3) @drawinghell
12)つまりこういうことだ。「作品」には必ず「作者(送り手)」の存在があり、我々が彼らの声を「正しく」聞こうとすることによってのみ、その概念は成立する。
水野 亮(3) @drawinghell
13)そして、このとき重要となるのが「作者」が「ここにはいない者」であるということなのだ。「ここにはいない者」だからこそ、我々はそこに託されたものを「正しく」読み取ろうと努めるのである。
水野 亮(3) @drawinghell
14)とは言え作者が故人の場合はともかく、現存作家ならば作者が現実的に「ここにいる」といった事態は容易に起こりうる。実際、ギャラリーに展示を見に行くときなど、展示作家本人が「説明してやろう!」とばかりに作品の前で手ぐすね引いて待っていることはままある。
水野 亮(3) @drawinghell
15)そのような場合、自分はたいてい十八番の「俺に話しかけるなオーラ」を発動して話しかけさせないようにする。もしくは生返事を連発して諦めさせる。何が邪魔と言って鑑賞者にとって作品の前に立った作者ほど邪魔なものはない。知人の展示さえ、作者が不在のときを狙って見に行くくらいだ。
水野 亮(3) @drawinghell
16)しかし斯様な態度は「作者」の声を「正しく」聞こうとすべき受け手としての姿勢に反するのではないだろうか? 否、そんなことはないのだ。なぜならば「作品」における作者と「作者」は別物だからである。
水野 亮(3) @drawinghell
17)これも何度かここで書いたことだが、「作品」における「作者」の存在は、「世界」における「神」の存在と入れ子になっている。作品から作者の意図を読み取ろうとする行為は、自然の造形に神の「意志」を見る行為と構図的に対応しているのだ。
水野 亮(3) @drawinghell
18)そしてその構図が成立するためには、目の前にいる作者がいままさに自分に伝えようとしている言葉は、自分が彼の作品から聞き取ろうとしているものとは絶対に「違う」ことが前提なのである。これは絶対の原則であり、この原則が崩れた瞬間、「作品」の概念も崩壊する。
水野 亮(3) @drawinghell
19)つまり「作品」から読み取るべき「作者」の声とは、作者が決して「言葉にできないもの」でなくてはならないのである。なぜならば、もし作者が「それ」自身を言い表すことができるならば、それが「答え」になってしまうからだ。
水野 亮(3) @drawinghell
20)もし単一の「答え」があるとすれば、それは「作品」ではなくクイズである。受け手が「作品」から「正しく」読み取るべき言葉は、決して一様ではないのだ。受け手の随意ではないが、単一の「答え」でもない。それこそが「作品」から読み取るべきものなのである。
水野 亮(3) @drawinghell
21)しかしここでひとつ疑問がわく。「作品」から読み取るべきものが作者が「言葉にできないもの」であるならば、なぜアーティスト・トークなどのイベントが流行るのだろうか? 「作品を見ること」のなかで、作者の話を聞くことはどのような意味を持つのか?
水野 亮(3) @drawinghell
22)自分はもともとアーティスト・トークに対しては批判的だった。人々が自分の目で見、頭で考える手間を惜しみ、手っ取り早く「答え」を知るために作家の話を聞きたがるのだとばかり思っていたのだ。しかし作者が「答え」を語る存在ではないことは既に説明したとおりである。
水野 亮(3) @drawinghell
23)つまり彼らはそこに「答え」を聞きに行くわけではないのだろう。ではなぜアーティスト・トークのような場が存在するのか? 考えるに、それは作家が「言葉にできないもの」をこそ聞く(もしくは見る)ためなのではないだろうか。そう考えれば辻褄は合うのだ。
水野 亮(3) @drawinghell
24)この件に関しては思い出すエピソードがある。それは以前、展示をやる条件として自分自身がトークをやらねばならぬ羽目になったときのことだ。打ち合わせの場で、場をセッティングしてくれた企画者の方が「子どもの頃の話を聞いてみたい」とリクエストしたのに対して、自分は猛然と反抗した。
水野 亮(3) @drawinghell
25)「何かというとすぐに作家の子ども時代の話を聞きたがる風潮が自分は大嫌いである。俺の作品の秘密はそんなところには一片たりともない!」と。すると彼は笑いながら即座にこう切り返したのだ。「それはいいんですよ。みんな作家がそれを“どう語るか”が見たいんだから。」
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