26)思わずハッとさせられたが、その言葉が「本当に意味するもの」を理解できたのは今更なのだ。つまり自分は誤解していたのである。そもそも自分が語る言葉のなかに「俺の作品の秘密」などあるわけがなかったのだ。それは自分が「語れない」もののなかにしか存在しないのである。
2013-07-04 22:30:3527)考えてみれば自分が他人の作品について文章を書くようになったのも、自分の作品について「何も語れない」という障害より始まっていたのだった。しかしそれもそもそも自分の作品が語るべきものを、自分自身が言葉によって「語れる」と思った勘違いにこそ由来していたのではないか。
2013-07-04 22:31:2128)作者と作品の関係は複雑である。しかし一つだけ言えることは、自分の為した表現を自分の「作品」として認識するとき、作者は「送り手」から「受け手」の立場へと移行しているのである。
2013-07-04 22:31:4629)つまり作品が「作品」となった瞬間、それは作者から切り離される。その時たとえそれが自分が生み出した表現であっても、作者は作品が語るものを「正しく」聞き取る努力をしなければならない。その姿勢を持てぬうちは、作品はまだ「作品」として完全には客体化されていないということなのだろう。
2013-07-04 22:32:1530)そして作者が自分の作品から聞き取るべき言葉は、自分自身が決して「言葉にできないもの」なのである。それこそが「作品」の定義かつ存在意義であり、そして自分が「作品」を作る理由でもあるのだろう。
2013-07-04 22:32:4431)作者による「説明」をそのまま要約したような批評やレビューに自分が不可解なまでの怒りを覚える理由も、おそらくはここにあるのだろう。つまりそのようなものに「批評」を名乗られること自体が、自分には「作品」の概念を冒涜しているように感じられてしまうのだ。
2013-07-04 22:33:14補1)ここまで書いたことは全て<信仰>の問題と関係する。そもそも倫理は<信仰>の実践であり、自分の「作品」観は、紛れもなくそれ自体がひとつの<信仰>である。
2013-07-04 22:34:27補2)よって次に自分が考えなけばならないことは、他者の<信仰>といかに折り合って行くかという問題である。言われるまでもなく自分は「作品」原理主義者であるが、当然それは褒められることなどではマッタクなく、むしろ真っ先に改めるべき欠点だろう。
2013-07-04 22:35:09補3)なぜならば、これも以前ここで書いたことだが、今後の世界は他人の<信仰>を理解し、いかにそれと付き合っていくがますます重要になると予想されるからである。そのとき一番気を付けなければならないのが原理主義に陥ることなのだ。
2013-07-04 22:35:43補4)自分の<信仰>を保持しながら、いかに他人の<信仰>と折り合って行くか。これが自分にとって今後の重要な課題の一つとなるだろう。
2013-07-04 22:36:11