【所縁の地】京と攝津で源氏充してきた(+川西の呉服神社など)

京に行ったので、当時頼朝さまの伴をして行った若宮八幡宮の参詣やその跡地、ついでに攝津の清和源氏発祥といわれる多田院、周辺神社などもまわって来た。
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畠山重忠 @Shigetada_bot

ちなみに、北摂の辺りの寺社(イケダ神社、呉服神社も含む)はこの辺りを拠点としていた(攝津源氏の流れとも言われる)池田氏を、織田信長に寝返った荒木村重が討ち滅ぼした時に焼いたんだそうな。

2013-07-09 00:39:35

そして京で次男サミット本番が開かれている日、体調を崩した私は現在の京都御所蛤門向かいあたりで、御所の上空を眺めながらほぼ半日横臥しつつ、かき氷食べてました。

そんな後に保元の乱の夜になりまして。

畠山重忠 @Shigetada_bot

再建途中の土御門内裏をぶった切って参陣!RT @yk_ashikaga 義康:ひゃっはー! RT @sukemori_t: 保元の乱の合戦図を現代の地図に載せてみました。足利殿はw京都御所を突っ切ってますねwww #保元の乱2013 http://t.co/dhDfRkr5C1

2013-07-11 10:43:08
畠山重忠 @Shigetada_bot

ちなみに土御門内裏址は現在の蛤御門の前。保元の乱の中心人物である崇徳上皇の里内裏でもあった場所で、この頃は丁度上皇のための再建が進んでいたはずですな。しかし乱の後に後白河天皇によって大内裏の再建が打ち出され、里内裏はそのまま廃された。 #保元の乱2013 現在は史学共済系の宿だ。

2013-07-11 10:50:32

という坂東にて微妙に京に馴るるものとして豆知識呟いておきました。そんなわけで、すっかり抜けてた攝津は池田の綾織系神社の話題。

畠山重忠 @Shigetada_bot

@nekoneko_1446 秦上社・伊居太神社が上の宮で、駅から近い一般的な服飾繊維の神さまやってる下の宮は呉服神社ですな。どっちも面白いです、綾羽(←住所)の伊居太神社は能勢街道脇で猪名川脇でもありますな。五月山の上。山も川も万葉集にその名が見える。

2013-07-10 23:37:47
畠山重忠 @Shigetada_bot

あ、星の宮のご旅所しらんかった。RT @nekoneko_1446 あらあらまぁまぁ、、、面白そうで http://t.co/BEIA3u28Ui

2013-07-10 23:45:29
畠山重忠 @Shigetada_bot

そういえば、攝津の源氏関連の寺社をまわった話をまとめようとして、呉服神社関係を投下していなかったことに気がついた。あれ? 多分、写真つきでは落していないよ…な? 攝津多田神社から車で10分圏内にある、能勢街道沿いの伊居太(いけだ)神社+呉服(くれは)神社などについて、だ。

2013-07-23 22:04:08
畠山重忠 @Shigetada_bot

伊居太(いけだ、または、いこた)神社。摂津の阪急池田駅前にある呉服(くれは)神社の上の宮さんと呼ばれる。呉服神社と同じく、機織の神、呉服媛と穴織媛が祀られている。下の宮の呉服神社と比べるとひと気もなく、素朴な空気が残る。 http://t.co/tH5lqYKYAj

2013-07-23 22:04:39
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畠山重忠 @Shigetada_bot

穴織宮伊居太神社。式内社を主張しているが、社伝にある仁徳天皇による創建のものかは確証なし(同じ主張をする尼崎の同名神社あり)。本殿は三社造りで、境内に源頼光お手植えの頼光(らいこうまつ)あり。※探したけど発見できず http://t.co/mqNvRJXNqY

2013-07-23 22:10:41
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畠山重忠 @Shigetada_bot

伊居太神社の現存社殿は、摂津池田家の家臣であった荒木村重が三好に寝返り織田信長についたり茨木城主になったりして、からの天正6年に叛意を見せたため織田軍によって、多田神社もろとも焼き討ち。30年後の慶長9年に豊臣秀頼によって再建(多田神社は更に後の寛文年間の再建)されたもの、と。

2013-07-23 22:23:32
畠山重忠 @Shigetada_bot

ちなみにその際に同時再建されるはずだった猪名津神社がそのままとなり放置されていたが、200年後の文化2年に社殿大破のゆえ普請しようとしたところ、その下から朱に塗れた神骨が出たので、改めて祠を築いて復活させたという。 http://t.co/1JQGfYQOv7

2013-07-23 22:31:27
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畠山重忠 @Shigetada_bot

イナツヒコとは「猪名の地の首長」(「地名+ツ+ヒコ」を名乗る神は、土着豪族の首長などを神格化・産土神化したものが多い)なので、社伝にある機織の姫たちを呉より連れ戻ったと言う「アチオミ」が仁徳天皇より猪名の港一帯を与えられたとの逸話から「イナツヒコ」として祀られたものと思われる。

2013-07-23 22:36:32
畠山重忠 @Shigetada_bot

あと、朱に塗れた骨とか言うとおどろおどろしく感じるかもしれぬが、朱とは多分水銀(丹生)、ベンガラで、これは防腐剤として使用された。なので神社などの木材に朱色はよく使われているだろう。貴人の亡骸や骨にも再生を願い古代より施朱の風習もあったな。

2013-07-23 22:41:18
畠山重忠 @Shigetada_bot

む、呉服神社の写真がみつからん……中は、結構立派なところなのだぞ。機織の神であるため、繊維業などの皆さんがよくいらっしゃるようだ。この一帯の七福神詣でのひとつでもあるようだし。 http://t.co/vhdwHetW6q

2013-07-23 22:50:01
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ということで、今度行く時は一ノ谷への行軍の道でも紹介できたらと思う。弁慶の水鏡だとか地元の人でも由来を知らない様子であった。

あとは能勢の銀山から妙見のこと。また呉服神社関係の話題をもう少し探れれば良いと思うておる。
個人サイトだが結構細かく調べてあるページを参照に残すぞ。
http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/hokusetu-ikota.html