山本七平botまとめ/サルまねのサル同様の日本人/~啓蒙主義から脱する時、人は初めて、その対象から自由になれる思想と遭遇する~
- yamamoto7hei
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①【演じられる思想の自由な観客】明治以来の日本は、いわば啓蒙主義時代であった。 人は常に 「ではこうしろ」「ああしろ」「こうすべきだ」「こう考えるべきだ」「こういう考え方をしてはいけない」 と言われ続けてきた。 確かに、そういう時期はあって不思議ではない。<『存亡の条件』
2013-07-13 11:57:54②しかし啓蒙主義とは結局、一種の受験勉強的行き方であって「啓蒙された状態」とみなされるまで、すなわち試験を突破するまで、それをつづけることなのである。
2013-07-13 12:27:54③これは戦後にも「民主主義的啓蒙主義」として復活し、 「こうすることが自由だ」 といわれれば、人びとはあらゆる不自由を忍んでその「自由」なるものに盲目的に従い、(続
2013-07-13 12:57:59④続>「民主的に考えなさい」と命ぜられれば、命ぜられた通り考えるということは民主的でないなどと夢にも思わずに、 「命令に盲目的に従って″民主的″に考える」 という実に奇妙なことをつづけてきた。
2013-07-13 13:27:48⑤また 「これが進歩だから、こうしろ」 と命じられれば、そうすることが進歩だと信じても、命じられた通りに行動し、その行動の理由を理解しないならば、それは人間より退歩して、サルまねのサル同様になるのだとは、夢にも思わなかった。
2013-07-13 13:57:55⑥人が何かを思考するということは、まず、この状態から脱却することにほかならない。 そしてこの状態から脱却したときはじめて、人は、自らの決心の基となる判断のための、基本的な参考資料がほしくなるはずである。
2013-07-13 14:27:50⑦いうまでもなく参考資料とは、その人が、臨在感的に把握してその対象を絶対化し、それに支配され、それに拘束されるための対象でなく―― 一言でいえば「無心で対応すれば」「どうしろ」と言ってくれる対象でなく、(続
2013-07-13 14:57:57⑧続>あくまでも自己に対するものとして、いわば自分の内なる自己とその本とを対立関係において見る対象として存在する筈である。 その時、その人は、その本に対して、自由なのである。 いわゆる啓蒙主義から脱する時、人は初めて、その対象から自由になれる思想と遭遇するのである。
2013-07-13 15:27:46⑨思想は、元来は絶対にその思想と接する人間を、被啓蒙者とはみなしていない。 しかし、被啓蒙的姿勢は、あらゆる思想を常にそのように受けとらざるを得ず、そう受けとらなければ、その対象は、少なくとも被啓蒙者的読者にとって、思想ではないのである。
2013-07-13 15:57:50⑩だが、そういう受取り方をすれば、その人にとって、一切は思想ではない。 というのは、その人に「思考」がないからである。 「なるほど、では、どうしろと言うのか」 またこの質問が出るであろう。 他人がどうしたらよいか、そんなことは私は知らないし、だれも知らない。
2013-07-13 16:27:51⑪そして、その人がもし自らの思想を生きているなら、その人に言えることは、自分はこういう生き方をしている…その生き方には、こういう点を注意したらよいのではないか、いわばこれは図式だが、ご参考のために申し上げておこうということだけである。
2013-07-13 16:58:05⑫人間は過去の思想をそのままに生きることはできない。 これは二千年前も現在も同じである。 たとえ、二千年の前のユダヤ人がいかにモーセの律法に忠実であったとはいえ、現実には″口伝″が必要であった如くに、現在のマルクス主義者も″口伝″が必要であろう。
2013-07-13 17:27:47⑬では一体、この″口伝″と口伝の基本とは、どういう関係にあるのであろう。 それは、たとえマルクス主義者でなくても、現在の多くの人が現実に生きている世界と、資本主義とはこういうもので、歴史はこの方向に進むのだ、といった″口伝″との関係と同じものであろう。
2013-07-13 17:57:50⑭それは…演じられている思想と観客とをつなぐ舞台装置の様なものである。 人が「思想という思考の演劇の世界」を見たとて、そこで演じられている通りの行為を客席で行うわけではないし、舞台から客席に「こうしろ」とはいわないし、また客席から舞台に「ではどうしろというのか」とは言わない。
2013-07-13 18:27:50⑮しかしそのことは、その「思想の演劇」がその観客の思想と行動を決定しないとはいえないのである。 結局過去におけるあらゆる思想は、それが輪廻転生であれ、終末論であれ、人びとの行動をそのように規定してきたのである―― その人が自由人である限り。
2013-07-13 18:57:54⑯ただし、舞台から命令されてその通りに動いた人間は、すでに、自由な観客でなく、「思想の演劇」の役者の奴隷にすぎないのである。 そして、もし進歩が人間にありうるなら、それはその奴隷になく、自由な観客にあるだけであって、それだけが人間の進歩といえる状態のはずである。
2013-07-13 19:27:46