- nasunozangai
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「心(意識・自我・再帰的自己意識・アートマン・とかそのへん)がない」とはどういう状態か。「心がない」ことを「心がない」者が自ら規定することはできない。「心がない」とは「心がない」者以外との関係性のなかにしかない。
2013-07-30 02:19:24「心がない」と保証されたロボット【パチえもん】と、「心がある」っぽいろぼっと【ドラえもん】がいたとする。第三者ノヴィ太がいたとする。ノヴィ太はパチえもんの「心のなさ」をどう保証するか
2013-07-30 02:21:03パチえもんとドラえもんのはっきりとした境界は、やはりある。しかしその境界は、その場の設問のしかたによって、いくらでも作り変えることができる。
2013-07-30 02:25:01これは人類と重い荷物の関係に似ている。人類は30kgのポリタンクを持ち上げることができる。50tトラックを持ち上げることはできない。ポリタンクとトラックの間のどこかに、必ず境界はある。しかし明確ではない。境界は、人類をどう設定するかによって幅広く変わる。
2013-07-30 02:26:43生まれたての赤ん坊は、はじめから自他の区別を支持する言葉を身に付けているわけではない。「自分」と「他人」にまつわる言葉の使い方を習得していく過程の中で、自然に「自他の区別」「こころ」などの概念や言葉の使い方を身に付ける。
2013-07-30 02:30:18心があると直感できるもの(にまつわることがら)を指して、「自分」と、心があるッぽいけれど直感的には確かめられないもの(にまつわることがら)を指して、「他人」と、そういうふうに習得してきた。もちろん、「心」という言葉が先にあったわけではない。順序は規定できない
2013-07-30 02:32:52つまり、『「心がない」と保証されているパチえもん』という問題設定は、レヴェルがずれている。それはノヴィ太の判断するレヴェルにない。
2013-07-30 02:37:41十分に日本語を習得した日本語話者ノヴィ太がパチえもんに初めて出会ったとき、パチえもんの外見・ふるまい・反応から、「心がある」か「心がない」か決めていくことだろう。自然に。
2013-07-30 02:36:27「他者に心があるか?」という設問が無意味(問いになっていない)なように、ノヴィ太はパチえもんやドラえもんの心について一切の保証を与えない。まやかしの問いだった。問いになっていない
2013-07-30 02:40:05共有できない<この私>に関する問いなど、どう表現しようと無理だ。表現したそばから表現したかったものとはずれていく。しかし、輪郭を示すことができる? それも結局、「読み手」にとっての<この私>にずれているのではないのか。認識論的独我論と、何の違いがあるだろう。
2013-07-30 02:46:25結局は、<この私>が独立群立したモデルを俯瞰するか、独我論が消えてしまうところまで独我論を突き詰めるしかないのだ。それで残ったもやもやを、<この私>なんて呼んでいるだけでは?
2013-07-30 02:47:57<私>が<この私>であったことはあとから遡ってやってくる。<私>が夢中になって本を読んでいるとき、<私>なんてどこにもいない。ただ本を読んでいるだけである。<私>は、「本を読んでいた<私>」をあとからさかのぼって規定するとき、はじめて必要になる関係性である。
2013-07-30 02:50:54本を読んでいたのは、<私>だったのだ。 The person who was reading a book was me. ??
2013-07-30 03:01:47もし英語で考えることができたらどうなるんだろうなこれ。「<私>が本を読んでいる」のではなく、「(ただ単に)本が読まれている」。「<私>が本を読んでいた」と自覚したときにさかのぼって初めて<私>なる関係性が現れる。
2013-07-30 02:59:03