酢堂提督(仮名)の戦艦講座
扶桑型戦艦てのは面白い船だ。一般には金剛の影響下にあると目される鑑だけど、実はあまり金剛との類似性が無いのがまた面白い
2013-08-17 19:11:19扶桑型戦艦の配置は船体内部は前から順に、弾庫-缶室-弾庫-缶室-弾庫-主機-弾庫となってる。船体中央部を缶と主砲塔が交互に入ってるわけだ。
2013-08-17 19:12:00ちなみに金剛は弾庫-缶室-弾庫-主機-弾庫となってる。金剛の第三砲塔は「中央砲塔」なのだ。で、これは伊勢も同じ配置で、金剛の第三と第四砲塔を2基背負い配置にしたら伊勢になる。
2013-08-17 19:12:20ていうか金剛の元になった英国超弩級戦艦・巡戦は基本的にみんなこの配置。他国艦とか英国でも準弩級や弩級時代だと扶桑のように缶の間に砲を置く場合がある。これは船体中央部という限られたスペースの奪い合いの結果。
2013-08-17 19:12:39そして河内・摂津は船体中央両舷に主砲塔を備える弩級戦艦で、缶と主砲の場所が奪い合いになって交互配置になってる。扶桑はこれをそのまま踏襲してる。建造時点で旧いデザインだったわけだ
2013-08-17 19:13:00摂津・河内の特徴的なものとしては舷側装甲の裏に傾斜甲板を持たない点があげられる。これは舷側に主砲塔を置く都合上だろうと想像する。それ以前の艦より舷側装甲を厚くしてるんだし、一つの考え方として理解できる
2013-08-17 19:13:49そして扶桑型戦艦も傾斜した舷側装甲を持たない。構造的には傾斜甲板を備えることは可能だったはずだが、単純に河内摂津のままという趣になってる。
2013-08-17 19:14:06なお、舷側装甲の厚みは長門まで約30cmで変わってない。これは大面積で30センチぐらいの装甲を作るのが当時の日本では限界だったということだろうと想像する
2013-08-17 19:14:52さて伊勢では武装の配置から装甲の配列まで金剛というか英超弩級戦艦に倣った形態になった。つまり金剛を戦艦に改設計したものが伊勢であり、扶桑は金剛の武装を河内・摂津に積んだものだったのだ。
2013-08-17 19:15:09当時の状況を考えると、弩級戦艦2隻しか無い日本は、早期に超弩級戦艦を必要としてた。金剛をベースに戦艦を設計してたら時間がかかる。金剛の主砲を河内摂津に積んじゃえばお手軽に超弩級戦艦が作れる。これが扶桑型
2013-08-17 19:15:48そもそも扶桑の起工は1912年3月で霧島榛名と同時期であり、金剛は完成すらしてない。金剛の設計図はあるだろうけど、戦艦に書きなおすってのが短期間に出来るのかというと、扶桑を見れば分かるように全然できてない
2013-08-17 19:16:13ちなみに伊勢の起工は1915年、扶桑に遅れること3年、まだ扶桑も山城も完成してない。完成してないんだから運用実績なんかも無い。だから伊勢型が扶桑型の欠陥を是正して建造されたというのは、扶桑型は完成する前から下手すると起工する時点で旧式で欠点があると判明してたってことだ
2013-08-17 19:16:49伊勢では傾斜甲板もってるけど、それが有力な装甲になってるかというと、薄いので大して効果はないだろう。だから防御性能が大幅に改善したってこともない。もちろん砲塔数や缶室の規模からしてバイタルパートの長さも実質変わらないので、艦全体が致命部で装甲が薄いって弱点は扶桑と変わらない
2013-08-17 19:18:24扶桑の弱体な防御力の原因の一つである傾斜甲板の有無だけど、これは前弩級時代から普通に備えてるもので、別に珍しいものではない。持ってない戦艦のほうが珍しいぐらいだから、構造的に付けにくかったんで付けなかった河内・摂津をそのまま流用したから持ってないってだけ
2013-08-17 19:17:26結論として言うと、日本は超弩級戦艦を早期に必要としており、緊急登板的に扶桑を作り、英国技術を参考に頑張ってみたのが伊勢だが、そのどちらも成功作ではなかった。日本が一級の戦艦を得るのは長門からだったのだ
2013-08-17 19:19:07ワシントン条約締結のときに陸奥の維持に固執したのは、他にまともな戦艦がないという日本の事情があったのだと考えると、なんていうかすごく腑に落ちてしまう。実際どうだったんだろうね・・・
2013-08-17 19:20:22戦艦の図面をぼーっと眺めてるだけでも色々と想像の翼が広がるのが軍艦の良い所である。偶には艦これの美少女たちから離れて、パンツの色ではなくその生い立ちを考えてみるのも良いか
2013-08-17 19:22:52