幕末会津藩はどう見られていたか

大河ドラマ『八重の桜』をきっかけに幕末史の本を読み漁ってみたところ、会津藩の描かれ方に疑問を抱いてあれこれ考えてみたものです。
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itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

続き)「朝敵」として認定、周知された以上、たとえ疑問があったとしても大多数は従うしかなかった。 #幕末史私見

2013-08-21 00:32:16
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

《まとめ》 ・京都の会津藩は幕朝双方に影響力を持つ実力者 ・幕府と朝廷(のみ)の密接な関係を維持するため、介入してする他勢力を排除して敵意を買った ・孝明帝と家茂の死去に伴う政治的再編とその後の情勢の変化によって「実力者」から<君側の奸>、「朝敵」になった #幕末史私見

2013-08-21 00:34:21
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

本題は以上です。あとは余談をいくつか。 #幕末史私見

2013-08-21 00:34:36
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

松平容保について。創作などにおける容保は「帝と将軍に対する忠誠心が篤い」「真面目あるいは純真すぎて政治的策謀が苦手」といった描かれ方をすることが多いが、分かりやすさを強調した一面的な見方だと思われる。 #幕末史私見

2013-08-21 00:34:54
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

たとえば朝廷や雄藩寄りになる一橋慶喜に対し、会津はしばしば説得あるいは詰問を行っているが、その中には容保が自ら書状をしたためたものもあり、その文面はかなり厳しい。 #幕末史私見

2013-08-21 00:35:04
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

それ以前に、雄藩を参加させて幕府とともに国政を行う公武合体派が主流を占める中、幕朝関係のみを重視し他勢力を排除することを藩の基本的態度とする以上、藩主の了承なしで実行されるとは考えにくい。 #幕末史私見

2013-08-21 00:35:20
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

容保個人の政治力や交渉力がどれほどのものであったかははっきりしないが、少なくとも幕府の政策を忠実に実行しようと考えていたのは間違いなさそうだ。 #幕末史私見

2013-08-21 00:35:34
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

京都の情勢を知らない江戸からの指示に苦しみ、あるいは現地にいるがゆえの幕府一辺倒でない考えもあっただろうが、朝幕のみを重視する路線から外れることはついになかった。外れるとしたら路線転換ではなく、京都守護職の退任しかなかったのではないか。 #幕末史私見

2013-08-21 00:36:14
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

幕末京都政局を見るさい、<君側の奸>と並ぶもうひとつのキーワード、<私戦>について。 #幕末史私見

2013-08-21 00:36:30
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

鳥羽伏見の戦いが当初「徳川家と会津その他vs薩長の<私戦>」として扱われ、初日の結果を見た諸藩が薩長方につくことで大きく局面が動いたのはよく知られているが、禁門の変においても多くの見方は「会津vs長州の<私戦>」だった。 #幕末史私見

2013-08-21 00:36:49
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

この<私戦>も<君側の奸>同様、最高権威とそれが維持している序列をなるべく温存したままで争乱を処理しようという、当時としては一般的な政治的術策といえる。 #幕末史私見

2013-08-21 00:37:01
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

ちなみにこれを巧みに用いたのが薩摩。八・一八の政変では会津と組んで<君側の奸>たる長州を排除しながら、禁門の変では会津と長州の対決を<私戦>とみなして積極的に戦闘参加しなかった。 #幕末史私見

2013-08-21 00:37:20
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

会津藩はなぜ新政府に対する恭順を行えず、戦争に突入して本国での戦禍を招いたのか、について。本来はもっとしっかり書くべき内容だが、あえてざっくりいってしまえば(続く #幕末史私見

2013-08-21 00:37:59
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

続き)「新政府にきっちり詫び入れられなかった/入れる気がなかった」→「きっちり詫び入れないやつはぶっ潰すしかない」ということ。 #幕末史私見

2013-08-21 00:38:16
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

鳥羽伏見後の新政府の諸国鎮撫のプロセスには、「対象となった藩の全面的謝罪と降伏」「(名目上でも)新政府軍の征討」という条件が、必ずといっていいほど含まれている。つまり正邪を確定させ、正が邪を討つという行為が必須。 #幕末史私見

2013-08-21 00:39:13
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

前者は新政府の政治的正当性を担保し、後者で軍事的実績を作る。この両者を達成するため、事前交渉で対象藩がほぼ全面的といっていい謝罪を行わせ、それを受けて空砲の発砲や城の一部を焼き払って征討と見なし、最後に正式な降伏の儀式を行ってひとまず完了。 #幕末史私見

2013-08-21 00:39:30
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

このプロセスをしっかり踏んだ藩に対しては新政府もさほど厳酷な処分は行っておらず、その後の交渉次第では早い段階での寛典も許されている。ちなみにその代表例が桑名藩。 #幕末史私見

2013-08-21 00:39:47
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

対して会津は謝罪、つまり自分たちが全面的に悪いということを認めず、さらに仙台や米沢の出した和平条件に注文をつけ、とどめに藩内へ新政府軍が入ることすら拒否した。 #幕末史私見

2013-08-21 00:40:02
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

これを新政府方から見れば、謝罪もしなければ名目上の征討すら受け入れない、ということになるわけで、態度が硬化するのは避けがたいといえる。 #幕末史私見

2013-08-21 00:40:16
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

最後にあとがき的ななにか。なぜこんな連投する気になったかといえば、幕末史の一般的理解が会津や薩長など政局の中央にいた、いわば当事者の目線で占められているように思えたからです。 #幕末史私見

2013-08-21 00:40:35
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

どちらも当事者ならではのフィルターがかかっていていまひとつ納得できず、幕末史の本を読み漁ってみて、会津についての見方はひとまずこんな感じになりました。 #幕末史私見

2013-08-21 00:40:46
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

itozaki_keiさんの歴史>日本史>幕末維新 本棚 - 読書メーター http://t.co/3O1P2mcSHI 参考文献はこちら。当然ながらこれらの著作は私個人の見解とまったく関係なく、連投の内容に関する責任はすべて私にあります。 #幕末史私見

2013-08-21 00:41:04
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

もちろん、これらの著作は大いに参考になり、また多くの刺激を受けました。著者の方々に深くお礼申し上げます。 #幕末史私見

2013-08-21 00:41:38
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

これにて終了。深夜の連投にお付き合いいただき、ありがとうございました。 #幕末史私見

2013-08-21 00:41:49
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

【戊辰戦争と「朝敵」藩―敗者の維新史/水谷 憲二】鳥羽伏見の戦いのあと、関東と東北以外の諸藩を短期間で押さえた新政府。その意志と行動、さらに鎮撫の対象になった諸藩の対応を細かくまとめた力作。前半は幕府... →http://t.co/Nl4fpW5UHk #bookmeter

2013-09-03 22:58:46