【つい武】決戦!田辺城

勅使キタ――(゚∀゚)――!!でおなじみ(?)、田辺城籠城。去年もお話しましたが、今年は一緒に戦った人々のお話を中心に。
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細川の御隠居 @yuusai1534

まず、森四郎次郎と森一族。 城外で城内と連絡をとり奮戦するも、当主を含め一族十三人が戦死してしまう……。 #決戦田辺城

2013-09-14 21:21:07
細川の御隠居 @yuusai1534

しかし、残された十五歳の遺児がその采配により、米百俵を城内に運び入れるという偉業を成し遂げた。 その遺児は関ヶ原後、豊前で家臣となり、熊本へも随身し、維新まで細川に仕えた。 #決戦田辺城

2013-09-14 21:21:40
細川の御隠居 @yuusai1534

安場九左衛門。ご子孫の方の話によると、安場は西美濃三人衆の一人、安藤守就の末子とされ ているそうだ。 父は本能寺の変後に美濃にて討死、末子 (後の九左衛門)は伊賀の安場村に乳母と共に落ち延び、伊賀三郎を名乗る。 #決戦田辺城

2013-09-14 21:22:01
細川の御隠居 @yuusai1534

やがて成人後、忠興に召し出され、名を安場九左衛門と改めた。 田辺籠城では、敵将小野木重次の陣に潜入し、内情を調べ忠興に報告。 さすがは伊賀育ち! 元伊賀忍者!かっけえ! そして、その功により知行二百石に加増され、兜に前立てを付けることを許されたという。 #決戦田辺城

2013-09-14 21:24:22
細川の御隠居 @yuusai1534

ちなみに三代後の安場一平殿は赤穂義士大石内蔵助の介錯をつとめた人物として有名だの。 細川家は大石殿に敬意を払い、重臣を介錯人に選んだというから、一平殿は細川家にとってかなり重き存在になっていたと言える。安場はきっと誇らしい気持ちであっただろう。 #決戦田辺城

2013-09-14 21:25:02
細川の御隠居 @yuusai1534

網野の領主、沢田次郎助の妻。夫である沢田次郎助は猛将として有名であったが、『綿考輯録』によると岐阜攻城戦時に討死したと記されている。 #決戦田辺城

2013-09-14 21:26:03
細川の御隠居 @yuusai1534

丹後旧事記から抜粋すると、「常に儒学を好み民をいたわっていた沢田の恩徳に報わんと百姓の男共、200余人、息も切るるばかりに馳せ来たりた」とある。 #決戦田辺城

2013-09-14 21:26:58
細川の御隠居 @yuusai1534

沢田の妻はその時、二十歳ばかりのうら若き未亡人であったが、臆することなく「そちたち、よくぞ参りたり」と応え、儂の次男、興元の妻ら、家臣の妻と子供を籠に乗せ、田辺まで無事に送り届けたという。 #決戦田辺城

2013-09-14 21:28:06
細川の御隠居 @yuusai1534

さらには田辺城にて。 激戦区となった大橋付近で三刀屋殿が小野木軍の足軽たちをなぎ倒している小柄な甲冑姿の若侍を見つけ、 #決戦田辺城

2013-09-14 21:28:29
細川の御隠居 @yuusai1534

「あの若いの、なかなかやるなあ……」と思っていたら甲冑を身にまとった沢田の妻だったという話があったり(しかも敵の首を7つほど家臣に持たせて、ていくあうとしてきた)と、麝香と並ぶ、もう一人の籠城ひろいんなんだの。強い……、乱世のおなごは強いのう! #決戦田辺城

2013-09-14 21:30:11
細川の御隠居 @yuusai1534

使者として活躍したのは、魚住十助、森三右衛門、小島六左衛門、中津海五郎右衛門など。 中津は小島と共に忠興から託された書状を持って夜半に城に忍び込んだ。 #決戦田辺城

2013-09-14 21:31:07
細川の御隠居 @yuusai1534

中津は異能の男で、宮津城で能の催しがあった時、田辺まで五里(20キロメートル)の道を二時間で往復して高砂の能面を取ってきたとか、 槍の柄を杖について田辺の城の内堀の八間のところを飛び越えたので、十間に拡げるはめになったとか、超人的な話が残っている。 #決戦田辺城

2013-09-14 21:32:11
細川の御隠居 @yuusai1534

森は寄せ手の中に親戚がいて、そのツテで田辺に潜入。 その親戚の名が、興津弥五右 衛門景一(おきつやごえもんかげかず)じゃ。 森鴎外の 「興津弥五右衛門の遺書」の主人公の父とされる。 #決戦田辺城

2013-09-14 21:32:45
細川の御隠居 @yuusai1534

興津親子はこの功績により忠興に召し上げられた。やがて忠興の死後、弥五右衛門も殉死することとなる。 #決戦田辺城

2013-09-14 21:33:45
細川の御隠居 @yuusai1534

魚住は敵に見つかり捕らえられたとされているらしいが、やはり手を貸してくれた援助者により、無事に帰還した。 この援助者たちは、興津と同様、後に忠興に感謝され細川に仕えたという。 #決戦田辺城

2013-09-14 21:34:10
細川の御隠居 @yuusai1534

こちらから忠興への使者に立ったのは、雲龍斎という僧。 儂はこの者が敵に見つかることを想定して、わざと証拠となりうる書状の類いを一切持たせなかった。 #決戦田辺城

2013-09-14 21:41:15
細川の御隠居 @yuusai1534

案の定、 雲龍斎は敵に囚われてしまうが、実に堂々と 「出家の身で敵にも味方にもゆかりは無い、御慈悲と思って見逃すか、この場で討ち果たすか決めてくれ!」と啖呵を切ったという。 #決戦田辺城

2013-09-14 21:41:41
細川の御隠居 @yuusai1534

この勢いに、敵も雲龍斎の縄を解くしかなかった。こうして雲龍斎は、無事に忠興に情報を届けることが出来た。 #決戦田辺城

2013-09-14 21:42:15
細川の御隠居 @yuusai1534

それから中村甚左衛門。 「中村甚左衛門田辺城籠城御使者一件」という資料によると、 元・禁裏の北面の武士(御所の護衛をする人だの)といわれている。 #決戦田辺城

2013-09-14 21:42:49
細川の御隠居 @yuusai1534

籠城時にはその前職を生かし、禁裏への密使をつとめた。 これにより勅使が出されることとなり、忠興から「籠城第一の働き」と称せられ、自筆の哥と左文字の刀、九曜の家紋を与えられたという。 #決戦田辺城

2013-09-14 21:43:21
細川の御隠居 @yuusai1534

綿考輯録によると、その翌年に甚左衛門は亡くなる。 その子、弥一はまだ年若く身寄りがなかった為、忠興が家老・沢村大学の家で親類同様に育てよと計らい、以後は沢村と改姓した。 #決戦田辺城

2013-09-14 21:44:42
細川の御隠居 @yuusai1534

この中村甚左衛門、父の名を中村一氏殿といい、 豊臣政権の三中老の1人であった。 そして中村一氏殿の奥方の名は、安養院殿。またの名を池田せん殿。 #決戦田辺城

2013-09-14 21:46:22
細川の御隠居 @yuusai1534

そう、池田恒興殿、恒さんのご息女じゃ。 その三男であったと言われる中村甚左衛門が確かにせん殿の子供であるならば、だの?つまりは恒さんのお孫さんがあの時、田辺にいて、だ。 #決戦田辺城

2013-09-14 21:48:26
細川の御隠居 @yuusai1534

勝利の鍵となる朝廷への密使をつとめてくれたなんて、 なんというかもう儂、恒さんのいる方向に足向けて寝られないから毎晩、恒さんが東西南北どの方向で寝てるか聞いてから寝ないとっていうか歴史!!!!!!繋がるっ!!!!!!(グッ) #決戦田辺城 #決戦田辺城

2013-09-14 21:51:21
細川の御隠居 @yuusai1534

そして話が一氏殿の末弟・中村右近殿の血筋になると、その弟のお孫さんがなんと、歌舞伎江戸三座の一つ中村座の座元・初代中村勘三郎と同一人物とする説 (「東都劇場沿革誌料」等の史料によるが真偽は不明)まであり、 #決戦田辺城

2013-09-14 21:53:02