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【三国志】五丈原の戦い

諸葛亮最後の北伐となった五丈原の戦いの推移についてちょっと考えた。
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Jominian @Jominian

地図を見ると、五丈原は斜谷の出口であると共に、長安と陳倉、ひいては隴右との連絡を遮断する位置にあると分かる。渭水の北に広がる台地と、南の秦嶺山脈との間が急速に狭まり、回廊状の地形をなす門の所にあるのが五丈原だからだ。大軍を西に送るのに、ここを制されると厄介である。要衝と言える

2013-10-20 01:38:40
Jominian @Jominian

結局のところ、諸葛亮の目は最後まで隴右を向いていたと思う

2013-10-20 01:59:47
Jominian @Jominian

五丈原の地形を考えると、北原の争奪戦は不可避だった。渭水南北を押さえることで、初めて隴右と関中を断ち切ることができるからだ。郭淮は隴右との連絡を断たれるのを何より恐れていたので、北原の防衛を具申した

2013-10-20 17:45:13
Jominian @Jominian

昨夜少し話した五丈原の地勢。比高にして150mくらいの台地と秦嶺山脈との間の回廊状の地形の出入り口となる。ここに諸葛亮に居座られると、隴右との間の水運は使えず、隴を越えるルートについても迂回を余儀なくされる。 http://t.co/01uG6ADqeP

2013-10-21 00:52:19
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Jominian @Jominian

五丈原の戦いって、別働隊を隴西に派遣した方が効果的な気がするんだよね。しかし、現実には、別働隊として使うべきであった魏延は五丈原にいた。これはどういうことかというと、やっぱり諸葛亮は敵の撃破を企図していたってことなんじゃないかと

2013-10-23 08:04:33
Jominian @Jominian

多分、「五丈原に拠って隴西への経路を遮断する動きを見せれば、魏の方でも諸葛亮撃退のために戦いを求めるだろう」という目論見だったのではないだろうか?しかし、それならなおのこと、一隊を隴西に派遣した方が良かったのではないか?

2013-10-23 08:14:48
松浦 桀 @HAMLABI3594

@Jominian 魏略には「會亮前鋒為張郃費繇等所破遂將維等卻縮」とあり、馬謖(高翔)を前鋒と認識している。魏延伝に第五次北伐の魏延は前鋒と書いてあり、魏延は第一次北伐の街亭の馬謖(高翔)と同じ立場。となると、諸葛亮は魏延に何をさせたかったのかが問題となると。

2013-10-23 10:09:14
Jominian @Jominian

@HAMLABI3594 分かっているのは、撤退時に諸葛亮の本営から十里離れていたということ。単独で作戦していた距離とは言い難い。

2013-10-23 10:49:08
松浦 桀 @HAMLABI3594

@Jominian となると途中経過が省かれているからわからんということになるのか。あとは水経注か。

2013-10-23 10:52:22
Jominian @Jominian

@HAMLABI3594 水経注には武功水岸の攻防が載っているが、魏延との関連は不明だな。郭淮伝の北原の争いについても、魏延との関連は不明

2013-10-23 15:02:31
Jominian @Jominian

北原と陽遂の攻防から、諸葛亮の意図が読めないものか

2013-10-23 22:41:03
Jominian @Jominian

宣帝紀によれば、司馬懿のが先に戦場に着いていて、陣を築いているわけで、そうすると、場所は五丈原の北では無いのかもしれない

2013-10-23 22:45:47
Jominian @Jominian

五丈原の戦いは、東の司馬懿、西の諸葛亮という布陣だったのだろう。南北に対峙していたと見ていた俺のかつての認識は、恐らく間違いだ

2013-10-23 23:01:30
Jominian @Jominian

五丈原の戦いにおける孟琰の話は、司馬懿が渭水の増水に乗じたという記述が正なのか?渭水とはっきり書かれてるんだっけ?

2013-10-24 08:02:33
Jominian @Jominian

五丈原の戦いの際に、増水したのは武功水と考えるのが自然に思える。武功水も渭水に注いでいるので、広く見れば渭水であるし。山側の雨が、秦嶺に源流を持つ各支流の増水を呼び、それが注いで渭水を増水させたのではないだろうか?

2013-10-24 08:09:22
Jominian @Jominian

さて、五丈原の戦いについて考えるよ

2013-10-25 00:38:19
Jominian @Jominian

司馬懿は諸葛亮の攻勢を知り、急ぎ斜谷口に急行し、渭水南岸に布陣した。諸葛亮は斜谷を抜けると、魏延ら前軍を前に進ませつつ、虎歩監の孟琰に武功水を渡らせた。これは、武功水東岸に橋頭堡を設けるためである。 http://t.co/GPd70AG6YX

2013-10-25 00:42:15
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Jominian @Jominian

渡河した孟琰は司馬懿の騎兵に攻撃を掛けられるが、諸葛亮はこれを弓弩で迎撃しつつ、急ぎ橋を築いた。橋の完成までに孟琰を撃破出来なかったため、司馬懿は孟琰攻撃を諦める。諸葛亮は、これにより東岸の司馬懿へと攻撃するための道を手に入れることになる。

2013-10-25 00:44:50
Jominian @Jominian

諸葛亮が步騭に送った書によると、武功の西に五丈原があり、東に馬冢という高地がある。そして諸葛亮は馬冢を攻撃するのが困難だと述べている。魏軍は馬冢に陣取っていたが、地図を見てもそのような高地はない。しかし、比高15m程度の高地に挟まれた場所がある。司馬懿は恐らくそこに布陣した。

2013-10-25 00:52:17
Jominian @Jominian

司馬懿は武功水東岸の、比較的低い高地と、その狭間に軍を置いて自らの陣地としたのだろう。地図からすると、そのような布陣がもっとも合理的に思える。

2013-10-25 00:53:35
Jominian @Jominian

また、諸葛亮は諸葛瑾に書を送り、前軍を五丈原に派遣していると述べている。また、司馬懿が周当を囮に使った時は、まだ諸葛亮は五丈原に上っていなかった。恐らく、まずは魏延らに五丈原の陣地を築かせつつ、斜谷口近くで突破の準備を指揮していたのだろう。

2013-10-25 00:56:29
Jominian @Jominian

司馬懿は、諸葛亮に橋頭堡を作られたため、渡河を阻止することは諦め、逆に武功水東岸に蜀軍を引き込もうとした。周当を陽遂に派遣して囮とし、蜀軍の攻撃を誘ったが、諸葛亮は動かず、自ら五丈原に上った。 http://t.co/v2C9Gg44jJ

2013-10-25 00:58:11
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Jominian @Jominian

その後、諸葛亮は別な手に出る。北原を奪い、隴への道を断ち切り、隴西の動揺を誘おうとしたのだ。これは、五丈原の地理的条件を生かした戦い方である。しかし、主たる目的が司馬懿の撃破なため、隴西への支軍派遣は行われていなかった。 http://t.co/rjIQWM5FSf

2013-10-25 01:01:18
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Jominian @Jominian

諸葛亮の北原への進出は郭淮に読まれており、郭淮は諸葛亮に先んじて北原を制した。諸葛亮は郭淮の陣地が完成しきらぬ内に攻撃を始めるが、郭淮を突破することが出来なかった。これは、郭淮が北原という高所に陣取っていたためである。北原は恐らく、渭水の北に広がる台地のことだ

2013-10-25 01:03:22
Jominian @Jominian

諸葛亮は北原攻撃に失敗し、渭水南岸に封じ込められてしまう。その打開策として、諸葛亮は次の手を打つ。既に作っていた橋頭堡を生かした陽動作戦である。諸葛亮は兵をこぞって西囲、すなわち北原への攻撃の姿勢を示しつつ、東囲、すなわち陽遂への主攻を準備した。

2013-10-25 01:06:15
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コメント

Jominian @Jominian 2013年11月2日
まとめを更新しました。
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Jominian @Jominian 2013年11月4日
まとめを更新しました。
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