【三国志】諸葛亮の北伐軍団に於ける姜維の役割について

蜀の建興九年(西暦231年)。諸葛亮は驃騎將軍の李平(李嚴)を解任する。その際の公文書から諸葛亮の漢中丞相府の機構についてを考察。
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松浦 桀 @HAMLABI3594

231年⑨(※但し魏公以降の曹操軍は所属がどっちなのかよくわからない)これは、曹操自身が私兵の誹りを受けるのを嫌ったためである。実質的には漢王朝軍=曹操軍ではあるのだけれども、建前としては漢王朝の皇帝の任命の下で曹操軍=漢王朝軍が運用されるという形式を曹操は重んじたのである。

2013-11-09 16:11:40

※曹操が漢王朝側(の臣下)から兵権を返すよう圧力を受けていた事については、『魏武故事載公十二月己亥令』曰「孤始舉孝廉年少…身為宰相人臣之貴已極意望已過矣。…然欲孤便爾委捐所典兵眾以還執事歸就武平侯國實不可也。…江湖未靜不可讓位至于邑土可得而辭。今上還陽夏柘苦三縣戶二萬但食武平萬戶且以分損謗議少減孤之責也。」を参照。

松浦 桀 @HAMLABI3594

231年⑩曹操の軍師である荀攸や鍾繇などは、実質的には曹操が独断で任命した曹操の軍師(鍾繇はちょっと微妙だが)なのだが、建前としては漢王朝が任命した軍師が曹操の丞相府に派遣されている(つまり軍師は丞相の部下ではない)という体裁をとったのである。

2013-11-09 16:14:24
松浦 桀 @HAMLABI3594

231年⑪この実質は府主が任命するのだが、建前としては皇帝が任命するというシステムは、府主である曹丕が皇帝になったため終了。公王期を経て魏は皇帝の権限で府主に対して軍師や護軍や参軍などを派遣するようになるのだが、司馬懿のクーデターにより、元に戻り、司馬炎の即位でまた逆転する。

2013-11-09 16:25:59

※太傅司馬懿のクーデターの結果、実権は太傅府の府主である司馬懿に移行した。皇帝を傀儡とした司馬懿に権力が集中したことは『三国志』高貴郷公(曹髦)紀「甲子(西暦257年7月23日)詔曰今車駕駐項大將軍恭行天罰前臨淮浦。昔相國大司馬征討皆與尚書俱行。今宜如舊。」(甘露二年六月甲子詔)を参照。
※文中の大將軍は大將軍の司馬昭を相國は相國の司馬懿を大司馬は大司馬大將軍の司馬師を指す。司馬懿と司馬師の最終官位は司馬懿が太傅で司馬師が大將軍だが、魏は司馬懿の死後に相國を司馬師の死後に大司馬大將軍を追贈しているため、この詔勅はそれに準じている。

松浦 桀 @HAMLABI3594

231年⑫ 李嚴伝の上書に戻る。「行」がつかない漢王朝正規の役職は「領長史」つまり丞相長史の楊儀と、「領從事中郎」つまり丞相従事中郎の樊岐、そして「前軍師」魏延の3名のみ。その他「行軍師」、「行監軍」、「行護軍」、「行典軍」、「行参軍」は全て諸葛亮が独自に置いた役職である。

2013-11-09 16:40:03

※この「行~」を「行官」と命名したのが石井仁である。『諸葛亮・北伐軍団の組織と編成について-蜀漢における軍府の発展形態-』(石井仁,東北大学東洋史論集4,1990年)など一連の論文を参照。

※但し石井論文は魏延の「前軍師」は「行前軍師」であるとする。

※後年に於いては諸葛喬(諸葛瑾の次男で諸葛亮の養子)の子の諸葛攀が「行護軍、翊武將軍」であることから、姜維の大將軍府が「行官」の制度を踏襲していたことは確実である。諸葛攀が呉に戻るのは西暦259年1月の孫綝誅殺以降の事と推定する。
諸葛攀に関しては『三国志』諸葛亮伝「…子攀官至行護軍翊武將軍亦早卒。諸葛恪見誅於吳子孫皆盡而亮自有冑裔故攀還復為瑾後。」を参照。

松浦 桀 @HAMLABI3594

231年⑬この3人(楊儀、樊岐、魏延)中、丞相長史と丞相従事中郎は、漢王朝正規の役職とはいえ、丞相府のスタッフ、つまり諸葛亮の部下である。唯一、魏延だけが位階の上下や権限の大小こそあれ、諸葛亮の軍隊に所属はしているが諸葛亮の部下ではないのである。

2013-11-09 16:45:50

※この公文書中では魏延のみが諸葛亮の丞相府に所属しないという意味。丞相府に所属しない諸将は他にも沢山いる。丞相府に所属していないだけで、全権委任の諸葛亮の支配を受けることは前述した通り。

叔嗣(しゅくし) @korekorebox

@HAMLABI3594 前軍師・征西大将軍になってからの魏延は、諸葛亮の指揮下には入ってるけど直属の部下ではない。自分も前から言ってるけれど、結構普通には受け入れてもらえない認識なんだよね。それ言うと「違う」ってリプがまだ来ることがある(ノ)・ω・(ヾ)ムニムニ

2013-11-09 16:53:01
松浦 桀 @HAMLABI3594

231年⑭つまり魏延だけ「行」がつかない「前軍師」である理由は、魏延が軍師する対象が諸葛亮であるためである。「軍師」は「監軍」の上位職。大権を有している者を監察する役職として監軍では不相応と判断する場合は、ワンランク上の軍師とすることで、相手を重んじるのである。

2013-11-09 16:53:36

※これは皇帝側が府主(諸葛亮)に対して尊重したことの説明。府主側が軍師として迎え入れることで相手(この場合は魏延)を尊重する効果もある。

※公文書中で丞相府に所属しない諸將中、魏延のみが記名される理由は、丞相府「を」監視する前軍師として丞相府と関り合いを持つためである。

松浦 桀 @HAMLABI3594

231年⑮問題は魏延を前軍師とする人事は皇帝劉禪の命令ではなく、諸葛亮の判断で皇帝に上奏して漢王朝の正規の軍師としたという点にある。つまり丞相諸葛亮と前軍師魏延との関係は、丞相曹操と中軍師荀攸や前軍師鍾繇などと同じなのである。諸葛亮の意思で魏延を諸葛亮の軍師としたのである。

2013-11-09 17:04:38
叔嗣(しゅくし) @korekorebox

@nyantarou0714 @HAMLABI3594 一応、前に描いた配置図で前軍師が軍団の枠外に出てたのは、こういう感じの意味なんです(ノ)・ω・(ヾ)ムニムニ

2013-11-09 17:26:29
松浦 桀 @HAMLABI3594

231年⑯ 姜維に戻る。文章中の序列は将軍号の上下(黄色)から始まり、領長史を挟んで丞相府の役職順(橙色)に並んでいる。魏延の征西大将軍が車騎将軍の下に置かれることから、これは大将軍ではなく征西将軍の意であることが確定する。 http://t.co/1Z9r4P2Os8

2013-11-09 18:20:34
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※この公文書は呉班までは將軍号の序列順に書かれている。楊儀からは丞相府行官の「部門の」序列順に書かれている。

松浦 桀 @HAMLABI3594

231年⑰ また丞相府の官職は上位から順に軍師>監軍>護軍>典軍>参軍>の各部門順にならんでおり、「行中軍師」、「行中監軍」、「行中護軍」、「行中典軍」、「行中參軍」が各部門のトップであることか推定される。但し前軍師の魏延は行官ではないため、行中軍師とは別部門である。

2013-11-09 18:26:06
松浦 桀 @HAMLABI3594

231年⑱この「行中軍師」、「行中監軍」、「行中護軍」、「行中典軍」、「行中參軍」に「領長史(丞相長史)」を加えた六名が丞相府の幹部である。但し幹部であるからといって権限があるわけではない。行中軍師の劉琰と行中典軍の上官雝は賓客(劉備にとっての簡雍のような)扱いだったのだろう。

2013-11-09 18:30:16

※劉琰が賓客扱いであることについては、『三国志』劉琰伝「劉琰字威碩魯國人也。先主在豫州辟為從事以其宗姓有風流善談論厚親待之遂隨從周旋常為賓客。…班位每亞李嚴為衞尉中軍師後將軍遷車騎將軍。然不豫國政但領兵千餘隨丞相亮諷議而已。」を参照。上官雝についてはよくわからないが、行中軍師と行中典軍のみスタッフが存在しないため、部長のみ存在する部署(具体的な仕事がないお飾り部門)として認識した。

松浦 桀 @HAMLABI3594

231年⑲ 表中「前監軍征南將軍劉巴」とは『三国志』を根拠に「劉邕」の誤りであるとされる。この公文書には書写間違いがあるという事は、他の部分もそうである可能性がある。それが姜維の「行護軍征南將軍」である。

2013-11-09 18:39:55

※ただし『三国志』にも劉邕が征南將軍だったとは書いていないため、別人の劉巴の可能性もある。