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【三国志】諸葛亮の北伐軍団に於ける姜維の役割について

蜀の建興九年(西暦231年)。諸葛亮は驃騎將軍の李平(李嚴)を解任する。その際の公文書から諸葛亮の漢中丞相府の機構についてを考察。
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松浦 桀 @HAMLABI3594

231年の李平(李嚴)罷免時の姜維の役職についての考察。諸葛亮の上書には李厳の解任に賛同する人物名が書かれているが、王平の名は見えない。これは文中「平參軍狐忠」から推測する。 http://t.co/KOCGN0KIdT

2013-11-09 15:19:52
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※文中には見えないが、王平は参軍である。『三国志』王平伝「王平字子均巴西宕渠人也。本養外家何氏後復姓王。…建興六年(228年)屬參軍馬謖先鋒。…丞相亮既誅馬謖及將軍張休李盛奪將軍黃襲等兵平特見崇顯加拜參軍統五部兼當營事進位討寇將軍封亭侯。九年(231年)亮圍祁山平別守南圍。魏大將軍司馬宣王攻亮張郃攻平平堅守不動郃不能克。」を参照。

※狐忠については『三国志』馬忠伝「馬忠字德信巴西閬中人也。少養外家姓狐名篤後乃復姓改名忠。…先主已還永安見忠與語謂尚書令劉巴曰雖亡黃權復得狐篤此為世不乏賢也。」を参照。

松浦 桀 @HAMLABI3594

231年②狐忠とは馬忠のことであり、李嚴の参軍であると書いてある。つまり王平は諸葛亮の参軍ではないのである。文中の参軍は全員「行參軍」と書いてあり、正規の参軍ではない。「行」がつく役職は全て諸葛亮が臨時措置として置いた「丞相府の役職」である。

2013-11-09 15:25:43

※「行」は漢王朝正規の官職ではないことを意味する。丞相府の役職を「臨時的な漢王朝の官職」として扱うため「行」がつくのであり、丞相府の役職に過ぎない(つまり漢王朝の官職ではない)のであれば「行」を付ける必要はない(つまり付けるということは漢王朝の官職なのである)。

※2015年1月21日追記「行」は権行(かりにおこなう)の意であり、漢王朝や丞相府など所属元を決定する要素にはならないので、上記の発言は誤りである。

※諸葛亮は丞相であり丞相府の軍隊を支配する。さらに諸葛亮は皇帝劉禅から全権を委任されているため他の軍隊をも支配する。他の軍隊は諸葛亮の北伐軍団(つまり蜀漢軍)ではあるが、丞相府に所属はしない(つまり丞相府の軍隊ではない)。

松浦 桀 @HAMLABI3594

231年③蜀で開府しているのは諸葛亮だけ(だと思われるの)だが、李嚴は使持節の驃騎將軍であるため、參軍を置くことが出来たと推測する。ただその場合も「行」の参軍であろう。諸葛亮が置く「行參軍」が「丞相行參軍」の意味であるように、李嚴が置く參軍は「驃騎(將軍)行參軍」である。

2013-11-09 15:36:00

※この時点でのこと。諸葛亮死後には蔣琬が238年に、費禕が251年に開府したとの記録がある。姜維に関しては記録がない。

松浦 桀 @HAMLABI3594

231④となると、参軍であるのに諸葛亮の上書に名前が載らない王平は、李嚴の参軍であるように思えるが、この時期にはもう1人使持節の將軍がいる。征西大將軍の魏延である。活動範囲を考えた場合、王平は魏延の參軍の可能性が高い。「征西(大將軍)行參軍」が役職であろう。

2013-11-09 15:36:07
松浦 桀 @HAMLABI3594

231⑤第一次北伐で「丞相行參軍」となった王平は、その後しばらくして諸葛亮の命令で魏延の参軍になったのであろう。

2013-11-09 15:37:54
松浦 桀 @HAMLABI3594

231年⑥蜀で正規の参軍を置くことができたのは劉禪だけだったと推測する。皇帝から任命(もしくは推薦)された参軍が正規の参軍であり、諸葛亮の丞相府に派遣されたとしてかりに役職名をつけるのであれば「皇帝參軍參丞相軍事」(皇帝の参軍として丞相の軍事に参与するの意)となる。

2013-11-09 15:53:11
松浦 桀 @HAMLABI3594

231年⑦後漢末以来「參軍」が府主(軍府の長官)に統属しない(つまり部下ではない)という原則の原因は、参軍は皇帝に所属しているという建前があるためである。西晋の初期に参軍の孫楚が派遣先の都督である石苞にこの建前を振りかざした結果、建前が廃止され、参軍は府主に統属するようになる。

2013-11-09 15:59:44
松浦 桀 @HAMLABI3594

西晋では孫楚事件の結果、参軍は府主に統属するようになったと書いたけれども、これは間違った見解。正しくは「參軍不敬府主」を「參軍施敬府主」に改めただけなので、孫楚の事件後も参軍は皇帝に統属している。

2014-10-10 16:09:58

※当時は皇帝司馬炎の時代。司馬炎は献帝のような傀儡ではないため建前ではなく実効。つまり理屈上は孫楚の言い分が正しい。しかし孫楚の常軌を逸した大義名分が参軍の制度を変えてしまった。参軍が皇帝ではなく府主に所属することになった結果、非常事態に際して洛陽の中央政府(つまり皇帝)が、地方の都督(府主)の行動を規制することができなくなった。西晋の滅亡原因を作ったのは孫楚である。

※孫楚は魏の曹丕、曹叡、曹芳期の中書令孫資(明帝曹叡の詔勅を偽作して魏の滅亡原因を作った)の孫。孫楚は日本では「漱石枕流」の故事で有名。府主(使持節、驃騎將軍、都督揚州諸軍事)の石苞に対して不敬の態度を取ったため参軍の制度が改められたことは『晉書』孫楚伝「楚後遷佐著作郎復參石苞驃騎軍事。楚既負其材氣頗侮易於苞初至長揖曰天子命我參卿軍事。因此而嫌隙遂構。…初參軍不敬府主楚既輕苞遂制施敬自楚始也。」を参照。

叔嗣(しゅくし) @korekorebox

@HAMLABI3594 何かで皇帝が直に任命したのが「正参軍」で、幕府を開いたものが任命したのが「行参軍」と書かれる。というのを読んだ記憶がある(ノ)・ω・(ヾ)ムニムニ

2013-11-09 16:06:59
松浦 桀 @HAMLABI3594

@korekorebox マジデ!どこにかいてあるんだろう。

2013-11-09 16:08:49
叔嗣(しゅくし) @korekorebox

@HAMLABI3594 大庭脩氏の親魏倭王かなと思って、ちょうど借りてきてたからざっと目を通したけど載ってなかった。思い出せないです(ノ)´ω`(ヾ)ムニムニ

2013-11-09 17:33:55
松浦 桀 @HAMLABI3594

@korekorebox ありがとうございます。だったら秦漢法制史の研究ににあるかな。それはそうといいかげん上大将軍ツイートは外して欲しい。あれみて信じる人がでてくると思うとふびんでならない。

2013-11-09 17:42:09
叔嗣(しゅくし) @korekorebox

@HAMLABI3594 『一般的でない独自見解です』の一言を付け加えておきます(ノ)^ω^(ヾ)ムニムニ

2013-11-09 17:49:32
松浦 桀 @HAMLABI3594

@korekorebox なにを問題にしているのかというと、 A 諸葛瑾は陸遜より上位である。なぜなら●●だからだ。 これは別にいいんですよ。 B 大将軍は上大将軍より上位である。なぜなら●●という理由で諸葛瑾は陸遜より上位だからだ。 これは成り立たないんです。

2013-11-09 18:10:23
叔嗣(しゅくし) @korekorebox

@HAMLABI3594 『こんな理由でかもしれない』にしかならないという事ですね(ノ)^ω^(ヾ)ムニムニ

2013-11-09 18:24:04
松浦 桀 @HAMLABI3594

231年⑧そしてこの建前は「参軍」に限らない。「護軍」や「監軍」や「軍師」などは建前としては全て皇帝に所属しており、皇帝から府主に対して派遣される。なぜ建前なのかというと、この制度を確立した曹操は皇帝を擁していたからである。

2013-11-09 16:09:46
松浦 桀 @HAMLABI3594

「参軍」や「護軍」や「監軍」や「軍師」などは皇帝に統属すると書いたけれども、「魏武為相以韓浩為護軍史奐為領軍非漢官也」とあるので、護軍(及び領軍)を参軍や監軍や軍師と同じ扱いにするのは誤り。

2014-10-10 16:21:39
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