- sakana6634
- 4177
- 8
- 0
- 0
宮中養蚕について
『宮中養蚕日記』(田島民著・高良留美子編/ドメス出版) 明治の初め、宮中養蚕復興事業の為に群馬県から出仕した田島民という女性の日記を翻刻。合わせて皇后の養蚕について、明治初めの時代背景や蚕婦らの暮らしぶりを解説する。 皇后の養蚕も明治の復興だったのか…。
2013-11-10 00:34:00ふんふん、皇后による養蚕(天皇による稲作と対を爲す)の復古は、王朝儀式の復活と言うより、儒教的国家の新造の一環として行われ、皇后美子も『女四書』を熟読したと。編纂の辻原元甫は『女性は伊勢・源氏物語などではなくいにしえの聖皇賢女に学び正しい行いと善悪を知るべし』という考えだったと。
2013-11-10 00:49:39『女四書』は『女大学』の流れを汲む教育書。女誠、女論語、内訓、女範捷録を差した。江戸後~末、昌平黌では形骸化した女訓の改革が模索され、その成果が女四書だった。元甫は女範捷録に代えて女孝経を入れ列女伝からも多く挿話を入れている。
2013-11-10 01:07:08参考:女大学から派生した女訓書などもあり→【女性関連資料 NWU Gazou DB Index】 - http://t.co/LEkOs7KnGY
2013-11-10 01:07:38皇后美子は一条家の出だが、出生当初から皇后となることを見込まれ国母教育を施されていたと本書は云う。女四書はそのメインテキストであり、美子は父忠香に招聘された儒学者貫名右近により教育を施されたと。 参考:「女子鑑」J-TEXT http://t.co/kj5blFhkne
2013-11-10 01:20:57そうした国母教育を受けた理知的な皇后美子によって推進されたことの一つが宮中養蚕だったと。『礼記』の説く王道に則し、また当時の日本の主たる輸出品が生糸だったことも大きいと。そうだよなあ。養蚕に関わる国民が今よりずっと多かったんだから、皇后が手ずから養蚕となれば慰撫の効果はあったろう
2013-11-10 01:30:28しかしこの養蚕も祭祀的な要素は伊勢神宮などに生糸を奉納したのみで、これでは言い方は悪いが嗜みの域を出ていないな。 志は高くとも内実は伴わない。形だけの間に合わせのいびつな復古。といっても欧化政策もそんなものか。
2013-11-10 02:06:16RT、自分、修論は中国の皇后の養蚕儀礼だったわー。皇后美子の養蚕が明治期の富国強兵策の一環だったことに触れた論文も書いたけど、身バレするから、晒さなーい( ̄∇ ̄)
2013-11-10 08:27:01日本で皇后の養蚕儀礼とおぼしきものが史料的に確認されるのは、孝謙天皇が、758(天平宝字2)年正月3日、初子(はつね)の日に廷臣に養蚕に用いる「玉箒」を下賜したという記録だけなのよね。現物は正倉院に納められている。http://t.co/JmCBfUJeHz …
2013-11-10 08:35:29それも当時実権を握っていた藤原仲麻呂の唐制を取り入れた政策の一環だと思われる。唐は則天武后の皇后時代を中心に積極的に皇后による養蚕儀礼が行われた。
2013-11-10 08:39:32蚕を飼うこと
RT〉蚕は飼ったことがあるが、大変。だけど可愛い虫だ。小学生だった時は、所構わず虫やら魚やらを飼っていたものだ。蚕は台所と座敷で。幼虫が桑の葉を食べる音は雨のようだった。成虫になっても家畜化した蚕は、飛ぶことが出来ない。だから蛾を掌に載せ、一緒に登校したこともあったな^_^;。
2013-11-10 08:11:40@otankousagi 母の実家も昔は兼農で養蚕していて、糸車などが残ってました。音のことも同じように言っていましたね。
2013-11-10 08:18:11@sakana6634 わあ、養蚕していたんですね。私の地元は別に昔も養蚕が盛んな地域ではないので、桑の葉を手に入れるのが大変でした。友達に誘われて飼ったのです。桑を栽培していても、活計としての養蚕ともなれば、大変だったろうと思います。
2013-11-10 08:54:34@sakana6634 生糸をとる時は、繭を茹でて蛹を殺してしまいます。蚕は蛾になって繭から出て来る時、破っているのではなく、唾液で緩めて隙間を押し広げて出て来るので、糸は切れないそうです。羽化した時に、余分な体液を排出して繭を汚してしまうので、出た後の繭では駄目かな。
2013-11-10 09:00:18@otankousagi 茹でるのは嫌だったと聞きました…。山間部だったので、農地も広くないし、貴重な副収入だったそうです。使えないくず綿を布団や綿入れに使っていたみたいですね。
2013-11-10 09:03:56@sakana6634 真綿の蒲団や綿入れですね!木綿が普及していない頃はこっちが綿ですよね。今の時代から見たら、なんとも贅沢な蒲団ですが。
2013-11-10 13:55:14@otankousagi そうなんですよね~。今からしたら贅沢ですが、当時としては廃品利用で。生糸で得たお金で木綿や化繊の布地を買って家族の着物を仕立てて…みたいなこともあったんでしょうねえ。生産者が絹を着る訳じゃないですしね。
2013-11-10 14:02:34野蚕について
「宮中養蚕日記」と一緒に、清代の王元[糸+廷]の邦訳「野蚕録」(伊藤智男・深田哲夫訳/法政大学出版局)も借りてきた。野蚕(山蚕)は人家や屋内での養蚕(家蚕)に対する語で、山野に放育するもの。 うーん、でもこれまで読む余裕は今回はないかも。
2013-11-10 09:25:40RT>↓…と私も思ってたんですが、野蚕録をみると、清代には一部は輸出するほど産業化していたみたいです。野蚕に使われた蚕は柞蚕だったそう。
2013-11-10 09:45:12