作品分析・作家分析について

建築とか映画など(たぶん美術や音楽なども)の表現芸術やその作家を分析する場合に取るべき態度に関して。
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堀井義博 @yoshihirohorii

建築家や映画作家に限らず、どの種類の表現者も、自分が影響を受けた先達の話をすることがある。例えばレム・コールハースがイワン・レオニドフやミース・ファン・デル・ローエの名を挙げ、デイヴィッド・リンチがスタンリー・キューブリックやフェデリコ・フェリーニ、ジャック・タチを挙げるように。

2013-11-29 11:25:11
堀井義博 @yoshihirohorii

そういう場面で挙げられる名前のリストこそが、彼等表現者の本丸だと思っていると、いろいろ見落とすことが多い。これは人間の一般的な法則じゃないかと思うんだけど、実に面白いことに、本丸にあたる部分は、非常に多くの場合、全くの無意識の内に避けられる。

2013-11-29 11:30:07
堀井義博 @yoshihirohorii

これには一体どういう作用が働いているのか分からないけど、とにかく「本当に私が影響を受けた人の名前」は、不思議なくらいに、そして面白いくらいに隠蔽される。別に彼等が嘘をついてインタヴュアーを欺いてるってワケじゃない。ある種の「フロイト的忘却」とでも言うような人間心理の謎が働く。

2013-11-29 11:32:02
堀井義博 @yoshihirohorii

誰か特定の作家を分析したいと思っている時、その種の文章化された「本人の発言」を拾って、作家の影響関係やらを追跡する手法というのには、だから自ずと限界がある。というよりも、だから、その手の分析手法は「最初から欺かれて」いる。

2013-11-29 11:36:06
堀井義博 @yoshihirohorii

作家を容疑者に見たてるのは、何も「悪意」からではなく、そうした人間心理の謎の働きの存在を前提として考えれば、全く当然の態度だと思う。彼等は常に「何かを隠して」おり、それを探り当てる行為こそが分析なのだから。「本人の証言」は、そうした分析の結果からこそ意味付けられるべき表層だ。

2013-11-29 11:40:50
堀井義博 @yoshihirohorii

「本人の証言」に根拠を求めることが出来ないなら、じゃあ何に根拠を求めればいいのだろう?…もちろん「文章化されてない表現」に求める。言葉と違って、これらの表現(建築家なら様々なプレゼンや実際の建築、映画作家ならもちろん映像など)には、ありとあらゆる無意識が露出するから。

2013-11-29 11:45:41
堀井義博 @yoshihirohorii

作品分析はこうして始まる。この時に「本人の証言」はしばしば非常に邪魔になる。作品分析の前では、それら「本人の証言」は、ひとまず、その他の雑多な状況証拠と同じ程度の参考資料扱いで良い。何故ならそこには「そう見られたい私」や「そう見せたい私」しかないからだ。本尊は常に別の場所にある。

2013-11-29 11:49:23
堀井義博 @yoshihirohorii

もちろん、…と見せかけて、すぐ目に付く場所にて「ホンモノ」置いとく、というトリックは、ワリと頻繁に用いられる。しかしこのトリックを使いたがる人というのは、そうする動機を考えれば分かる通り、残念ながら、必死になってその謎を解明したくなるような大物のターゲットじゃない。

2013-11-29 11:55:58

上記の誤入力を以下に訂正。


もちろん、…と見せかけて、すぐ目に付く場所に「ホンモノ」を置いとく、というトリックは、ワリと頻繁に用いられる。しかしこのトリックを使いたがる人というのは、そうする動機を考えれば分かる通り、残念ながら、必死になってその謎を解明したくなるような大物のターゲットじゃない。


以上。

堀井義博 @yoshihirohorii

要するに、ワザと騙してくるようなヤツは、仮にその謎を突き止めたとしても、別に面白くもなんともない、ちっちゃな小物なのだ。まぁそういうのと戯れて、分析スキルの訓練をする、という対象には良いかもしれないけど、あいにく、そのスキルは作品分析による無意識の解明にはほとんど使えない。

2013-11-29 11:59:04
堀井義博 @yoshihirohorii

まったく同じ理屈で、よくある「◯◯宣言」だとか「◯◯主義」だとかの「看板」やら「のぼり旗」の類は、まずもって基本的に無視するに限る。何故ならそれらは釣りで言うところの「撒き餌」に過ぎなくて、そこへと人をおびき寄せることが目的なだけの、空っぽのデコイでしかないからだ。

2013-11-29 12:10:48
堀井義博 @yoshihirohorii

これら「◯◯主義」だの「◯◯宣言」だのに関しても、それをどう分析すべきかというと、やはりそこで何が実際に行われているか、作品分析を行う以外にない。この手のものはそもそもがプロパガンダなので、作品はプロパガンダを正当化する目的で作られることが多く、無意識はむしろ周辺に現れる。

2013-11-29 12:14:22
堀井義博 @yoshihirohorii

で、「◯◯宣言」だとか「◯◯主義」なんかの「言葉には表されてない真の意味」は、そうした無意識が集中的に噴出している細部、いわば性感帯を探り当てることから、逆に明らかになる。政治的イデオロギーやら宣言やら公約やらの類は、まさにこうした分析手法のターゲットになる。

2013-11-29 12:18:21
堀井義博 @yoshihirohorii

もちろん芸術などの表現活動でも全く同じ。「◯◯主義」などの看板を掲げている表現は、とりあえずその看板と宣言文みたいなものをガン無視することからしか分析は始まらない。宣言の意味は、書かれた内容によって明らかになるのとは全く逆に、その看板の下に行われたことから訴求的に意味付けられる。

2013-11-29 12:41:10
堀井義博 @yoshihirohorii

「ことば」は、それによって指し示されたことがら以外のことがらを常に隠す。「ことば」は物理的な実質がないだけに、目の前を覆う遮蔽物として作用するのではなく、むしろ、我々の思考回路の中に入り込み、我々の思考回路の内部で、特定の「栓」のような働き方をする。

2013-11-29 12:47:16
堀井義博 @yoshihirohorii

今しがたの呟きで用いた、この「看板」というメタフォアの働きを、それこそかなり意図的に表現した映画作品の一つに、オーソン・ウェルズ監督の「市民ケーン (1941)」がある。看板はまくまで看板でしかなく、空っぽであり、また「ことば」は、それが指し示すことがら以外のことがらを隠蔽する。

2013-11-29 13:26:35
高橋堅/Ken Takahashi @ken691101

『「ことば」は.....我々の思考回路の内部で、特定の「栓」のような働き方をする。』ってのがいいですね。 @yoshihirohorii

2013-11-29 14:06:50
堀井義博 @yoshihirohorii

@ken691101 特定の回路を開けてくれることもあるけど、ガッチリ閉ざしちゃうこともある。しかもこっちの意志に基づいて作動してくれるワケでもない…という。

2013-11-29 14:10:46
高橋堅/Ken Takahashi @ken691101

脳の「ことば」による梗塞...まあだからこそ世界を「縮減」せずに見てしまう「分裂症」というタームを、D&Gも使ってるんだろうけど。

2013-11-29 14:15:23
高橋堅/Ken Takahashi @ken691101

D&G=ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ...orz

2013-11-29 14:24:44
高橋堅/Ken Takahashi @ken691101

@yoshihirohorii あいつらは結構自律してますよね^^

2013-11-29 14:27:41
堀井義博 @yoshihirohorii

@ken691101 以前から何度か呟いてる気がする https://t.co/r66UvIMOx4 けど、言葉は私にとって他者です。私は、言葉に対する他者意識が強烈にあります。私の中深くに根を張り巡らし、私の意志に関係なく、内部から私をコントロールするもの。

2013-11-29 15:11:04
高橋堅/Ken Takahashi @ken691101

@yoshihirohorii 私の場合はそこまで強く他者性は感じないですね。ただ物語性や構造に吸い寄せられて、思ってもいなかった結論を得ることはままあります。その辺りの働きに自律性があるように感じているということです。

2013-11-29 15:32:38
堀井義博 @yoshihirohorii

@ken691101 私には完全に寄生虫とかエイリアンの類ですね。中から自分自身を食い破ってくる存在。しかも無生物!なもんで、プリオンみたいだなとも思います。

2013-11-29 15:51:10
高橋堅/Ken Takahashi @ken691101

@yoshihirohorii 言葉が動物に「憑依」している感じは、オオカミの言葉が「インストール」されてしまった少年を想像すれば分かります。しかしながら人間は言語が「実装」されて初めて人間たり得る訳ですから、言葉は「必要条件」としてあるのでは。「私」はすでに汚染されていると。

2013-11-29 16:35:55