「本格として読む」とは何か

「本格として読む」とはどういう行為なのか――。推理小説評論家 巽昌章さんの12月4日の呟きをまとめました。
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巽昌章 @kumonoaruji

そういえば、ジャンル小説の批評に関して、前からブツブツ言われていながら突っ込んだ議論も問題の整理もまだないように思われるのが、「(本格、SF、etc.)として読む」というやつだ。「本格」と「本格として読める作品」の違いはあるのか、「本格として読む」とはどういう行為なのか。

2013-12-04 20:07:00
巽昌章 @kumonoaruji

経験上、「××作品」と「××として読める作品」の違いは厳然としてあると感じるジャンル読者が多いのではないか。しかし、その「感じ」の内実を検討する前に、「××として読める作品はいらない。純然たる××作品がほしい」「それはジャンル読者の偏狭さだ」といった罵り合いにずれこんでしまう。

2013-12-04 20:12:50
巽昌章 @kumonoaruji

私は、ある作品を「本格推理小説として読む」という行為を擁護したいと思う。一方で、「『本格として読める小説』より『本格そのもの』に価値がある」とするジャンル読者に対して。他方で、「本格として読むなどというのはジャンル読者の偏狭な態度だ」とするジャンル外の非難に対して。

2013-12-04 20:18:17
巽昌章 @kumonoaruji

だが、なぜ擁護したいと思うのか、そもそも何を擁護したいというのか、まだまだ考えの及ばないことが多い。

2013-12-04 20:19:07
巽昌章 @kumonoaruji

「本格として読むこと」と「自由に読むこと」が対立しているわけではない。いかなる力にも曝されない「自由な読み」などあるはずがなく、不自由さを生む力の場が違うだけだ。「本格として読む」ことは、ある場合には硬直した紋切り型にみえ、ある場合には逆に他の読みの硬直を解きほぐすことにもなる。

2013-12-04 20:32:50
巽昌章 @kumonoaruji

あるいは、比較的、力の場の存在が明瞭な分、「本格として読む」行為の分析は、「読むこと」一般のモデルケース足りうるかもしれない。

2013-12-04 20:34:31
巽昌章 @kumonoaruji

本格ファンが「本格として読むこと」を非難する場合、それは、重点が「本格」にない作品、あるいは、「本格」に求められるすべての要素を備えていない作品を、「本格」として評価することへの反感からくるものだろう。趣味の問題としてみれば、こうした趣味を主張すること自体を否定はできないだろう。

2013-12-04 20:39:40
巽昌章 @kumonoaruji

本格ファンへの批評的斬り返しが可能だとすれば、作品に「重点」「要素」があるとの前提が本当に自明のものかどうかを問い、自明性を揺さぶることである。ふたつめは、「本格として読む」ことが作品の重点を外していると思われないような読みの強度、いいかえればその作品の再構造化を志すことである。

2013-12-04 20:44:09
巽昌章 @kumonoaruji

似てるような似てないような問題として、「本格として評価する」というのがある。「読む」と「評価する」は、まったく同じではないだろう。だが、実際の力の場における行為として、どこが違うのか?

2013-12-04 20:48:30
巽昌章 @kumonoaruji

ことわっておくが、「突っ込んだ議論も問題の整理もされていない」というのは、ジャンル内でのことであって、文学理論の側で読書行為の分析がどれほどされているかは別問題である。

2013-12-04 20:52:34
巽昌章 @kumonoaruji

ただ、文学理論がどこまで進展しようと、本格推理小説をめぐる具体的な読みの「場」、評価を生む構造などが解明されない限り、私にとっての課題は終わっていないのだ。

2013-12-04 21:07:12