- sakana6634
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中国語の字典だと、緌は単に冠帽の緒、または結んだ緒の垂れた末、またはその下垂部分の飾り。んんん~。日本でも当初はただの冠の緒の事だった可能性はあるのかな? あのウニ飾りはどっから涌いて出たんだろ。防具の左右につく遮蔽物の変形、ていうのはもよく見るんだけど。
2013-12-02 01:22:59騎馬文化と装束についてすこし。
西安で買ったヘアカタログ。漢語、日本語、英語の三ヶ国語で解説が書かれている。時々日本語怪しい。 http://t.co/H1ZqtQZ5ej
2013-11-26 22:16:03オールカラーだ。結い方は載っていないけど、じゅうぶん楽しい。実際に結った髪型の根拠となった俑や絵画の写真も、だいたい掲載されている。 http://t.co/qDPiEdCmVl
2013-11-26 22:20:15続き>「盛唐 披帛半袖襦裙貴婦 圓領侍女」となった。結構化粧が濃い。 http://t.co/P2OT65t7d5
2013-12-02 00:11:52@otankousagi やっぱり双髻は少女のものだなあと思います。あと、こういう婦人+侍女の構図で侍女だけが盤領っていうの多い気がします。
2013-12-02 01:54:00@sakana6634 男の子が結っていても、あまりバリエーションを見ないような気がします。少女は例のカタログにはこんなのも。侍女が盤領っていうのは、確かに多いですね。何故かな。そう言えば中国の婦人の騎馬姿は裙でも跨いでいますね。 http://t.co/Y369DQOPR0
2013-12-02 08:59:40@otankousagi おお、この髪型、薬師寺吉祥天によく似てますね。この絵、髪型もあって、私は結構年若い女性を表してるんじゃないかと思ってます。 http://t.co/cvYPAKgIeG
2013-12-02 12:54:59@otankousagi そういえば、女性が鞍に横座りしている図ってあまり見ないかも。うーん、騎馬民族の実際的な馬術に触れることも多かったから…とかですかね?むむむ。調べたら面白そうです。
2013-12-02 12:59:12@sakana6634 これも跨っています。纏足しだすと騎馬は無理でしょうね。後漢の末頃に中国で鐙が発明されます。最初は乗る時だけ使うので、左側に一つだけ。その内に馬上での安定にいいので、両側につけ、常に足をかけるようになったとか。 http://t.co/zuv3ptDPVi
2013-12-02 22:49:03@sakana6634 だからゆるい漢服とか裙を穿いたままでも、馬に乗れるようになったようです。スキタイ人とかは、鐙も鞍も使っていません。馬の背には布をかけているだけで、両脚で馬の体を挟んで乗っています。その乗り方がお手本だったから跨るのかな。横乗りのルーツが知りたいです。
2013-12-02 22:49:48!鐙って片側だけのものだったんですね、成る程、ステップだったんだ。だから最初はスリッパ型じゃなくて輪っかだったのかな。あ、この前図書館で見かけ「海を渡った騎馬文化 馬具から見た古代東北アジア」(諫早直人/風習社/2010)が新しめの本では面白そうでした @otankousagi
2013-12-02 23:21:58@otankousagi 日本書紀天武天皇十三年四月の条に『…女年卌以上、髮之結不結及乘馬縱横、並任意也。』とあって、この頃の女性は縦横どちらの乗り方もあったようです。
2013-12-02 23:24:20@sakana6634 鐙は騎馬が得意で無い人々の工夫だったようです。大昔の騎馬民族は裸馬に乗って、弓を射るんですよね、カッコイイです。最近の本も面白そうですね。江上さんと佐原さんの騎馬民族は来た?来ない?の議論もあったことですし、騎馬文化も気になっています。
2013-12-03 00:31:10@sakana6634 日本書紀にそのような記事が!天武天皇の時なんですね。思ったより早い。何となく小袖が主になってからと思っていました。中国や朝鮮はどうだったのでしょうねえ。それに騎馬民族に横乗りはあったのかなあ。蛇足ですが、『通天帝國』に出てきた馬具が素敵でしたよ、鞍とか。
2013-12-03 00:50:44@otankousagi 漢人が胡服騎射を輸入しはじめた時は馬の背に乗るのも大変だったんでしょうね…。武装でもなく裾が長いまま鐙もなく乗るのはきつそうですし。 先程挙げたブックレットは、江上説の再検証も試みているようでした。
2013-12-03 00:59:31@otankousagi この前が装束関係の話だったのでチェックしていただけで、他に同様の記述があるかは調べてないのですが。そういえば馬形埴輪に人馬一体型が少なかったり、鷹匠埴輪の鷹を停まらせる手が大陸と逆だったり、日本に騎馬民族本式の馬術は根付かなかったのじゃないかという説が
2013-12-03 01:07:19【補足】日本書紀に
(天武天皇十一年)夏四月癸亥朔辛未、祭廣瀬龍田神。癸未、筑紫大宰丹比眞人嶋等、貢大鐘。甲申、越蝦夷伊高岐那等、請俘人七十戸爲一郡、乃聽之。乙酉、詔曰「自今以後、男女悉結髮。十二月卅日以前、結訖之。唯結髮之日、亦待勅旨。」婦女、乘馬如男夫、其起于是日也。
とありました。
@otankousagi 大分前の斎宮博物館の図録に載ってました。輸入当初は実用というよりステイタスシンボルのようなものだったのではないかと。 『通天帝国』は画像見る限り小道具に凝ってるみたいですねえ。香薫球もですが、革帯から色々提げて実用+装飾に使ってるのが参考になります!
2013-12-03 01:15:45@sakana6634 確か、馬のどちら側から乗るかも、日本人と大陸では逆だったよはず。馬自体も外来動物ですから、やはりステイタスシンボルの性質が強かったでしょうねえ。また漢人が胡服騎射を導入しても、ながらく特殊技術だったと思われます。貴族たちはなかなか乗りこなせなかった?
2013-12-03 07:57:03