明石市の石碑を巡る探索

江戸時代に作られた、明石市内に残る石碑を巡る歴史話
人文
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林崎疎水堀割渠記碑について
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
一昨日、明石市内の石碑を見てきたのだが、これについて少々語ります。十数年近くの研究というか、遍歴があった物なのでw 石碑(林崎堀割渠記碑)の写真はこれ →  http://t.co/C7seRe4cde
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佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
残念ながら、この石碑は周囲を柵で囲まれ、碑の近くまで近づけなかった。石碑は1739年に建立されたもので、表面は苔むしていて、写真でも判読できなかった。。。
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
この記念碑は、1658年に開削された林崎堀割疎水の工事事業を伝えるために建てられたもの。疎水の末端(明石市内野々池)付近は、今、こんな様子  http://t.co/Ai5nxLpWCi   http://t.co/4cAvb73xjW
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林崎疎水とは
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
この疎水と自分の研究の関わりを語る前に、疎水そのものについて簡単な説明を。この疎水は明暦3年(1657)に地元の大庄屋・伊藤次郎左衛門らが計画。和坂村(明石市内)の山崎宗左衛門に測量を依頼し翌年1658年完成。幅1.5m、長さ5374m (神戸市西区平野町西戸田~野々池)の規模。
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
疎水歴史や周辺の様子はこちらのブログなどが詳しいです。参考にさせてもらいました。(深謝) → http://t.co/JEtvEWgTMC http://t.co/wbnEaBLUdR http://t.co/pi8jgHHaJv
三宅尚斎と測量術
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
さて、この堀割と自分の研究の関わり。まずは明石藩の人脈から。 この堀割が作られた頃の明石藩主は藤井松平家という譜代大名。その配下に、測量家である木部四郎右衛門・他がいたのだが、さらにその門下に、江戸時代の思想家として有名な三宅尚斎(1662 - 1741)がいた。話はこの三宅から
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
この三宅という人、若い頃に明石で生まれ育ち、後に京都に出て山崎闇斎という朱子学者に学び、忍藩阿部家に仕えた。当主が代替りしたときにあまりにもボンクラな殿様だったので、諫言をしたらギャク切れされて場内の牢屋に3年間も幽閉されるという苦難を味わう。赦免後は京都で塾を開いたという経歴。
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
このようにまとめてしまうと、全然、三宅と測量術の関係は見えないのだが、偶々見つけた算術書の中に「三宅重固(尚斎のこと)に測量を学んだ」という記載があって仰天したことが始まり。13年ぐらい前のことだったと思う。沼田敬忠『小学本註九数名義諺解』という本だった。
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
あれこれ探すと、三宅はたしかに測量術(当時の言い方だと阿蘭陀町見術)を学んでいた。沼田の本は東大の図書館で見つけたがその後、03年と思うが、長野市松代にある真田宝物館で偶然見つけた史料がまさにドンピシャリで三宅の残した測量術書だった  http://t.co/bS7TiQzEu2
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木部四郎衛門とその地図
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
三宅の測量術についてはまだ面白い点があるのだが次の話へ。そうすると気になったのが、三宅の師匠筋だった明石藩の木部四郎衛門という人物。何か史料は残っていないかと探したところ、彼の作った地図が2点ほど、長崎県島原市の図書館、松平文庫にあることが分かり、長崎に急行した。05年のこと。
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
島原図書館で見た地図は、下総古河〜江戸の河川経路図と、越後高田〜越中国境の海岸図。前者は藤井松平家が古河に転封されて作られた地図。後者は、藤井松平家が越後騒動(1681年 http://t.co/fxheLTcuQ4 )の時に城受取に任命されて作られたもの。共に木部の署名があった
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
藤井松平氏は城の受取という大役を受けたので、その間の道中地図、あるいは何らかの軍事的目的で高田から親不知の沿岸地図を作ったのだろう。実際、どんな地形だったのか気になったので、車を飛ばして新潟沿岸部で撮ったのがこの写真。すごい所だった  http://t.co/mFUDEKRGVd
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佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
なお、越後騒動で一度改易になった松平家は、後に家門復興が許されて津山藩主となり明治まで続く。そのこともあって、越後騒動関連史料を探して津山で調査をしたこともあったが、藤井松平氏に関係する史料にはまだ遭遇できないでいる。
山崎宗左衛門と山崎佐左衛門
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
まだ明石の石碑との繋がりが見えてこないので、もう少し話を続けると。。。今度は、木部が誰に測量術を学んだかが気になる。以前から知られていた情報としては、細井広沢『秘伝地域図法大全』に木部の名前が出ている。(これの3コマ、4コマ目を参照)http://t.co/bk6ercUu8X
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
細井の本に記されている木部の師匠にあたる人物は「山崎佐左衛門重次」。(前のツイートの写真参照)この山崎という人物は、一体誰なのか?細井によれば山崎はオランダ人から伝授されたと記されている。そこで明石の石碑の文言に戻ると、疎水を測量したのは「山崎宗左衛門」だったという伝承である。
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
細井が語る「山崎佐左衛門」(1720年頃)と、明石の石碑に記されている「山崎宗左衛門」(1739年)が、人名として似ていることは一目瞭然。しかも木部は、古河に転封する以前の明石藩関係者であったから、宗左衛門と関係があったとみても不自然ではない。この二人は同一人物ではなかったのか?
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
ということで、明石の石碑に書かれている人物がもしかしたら「山崎佐左衛門」の誤刻ではないかと淡い期待を抱いて、十年越しの想いを遂げようと石碑の目の前まで来たのだが。。。 最初にも述べたとおり、周囲は柵で囲まれて近づけず、さらに碑面は苔で覆われて判読すらできないという状況  orz
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
だが、現地に来た甲斐があったのは、教育委員会による看板。石碑の撰文(文を書いた人)は当時の明石藩の学者・梁田蛻巌(1672-1757)だったことが明記されていた。梁田ならば全集があるので、それを見ればこの石碑の文面も収録されているはず、と期待。正月明けに早速調べるつもり。
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
「山崎宗左衛門」と「山崎佐左衛門」の問題。いずれも1650年代から見ると、半世紀以上経過した時点で記録されている点が、情報を曖昧にさせた原因のようにも思える。梁田にしても、細井にしても現地の明石とは直接的な縁がなかった場所の情報を取扱っていたので誤記の可能性も多分にあろうと推測。
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コメント

AKa @A_Ka81 2013年12月29日
神戸市出身ですが、「わたしたちの神戸」と言う社会科の副読本で、「西区には溜め池が多い」と習ったことを思い出しました。地図やリンク先などを読んでなるほどなぁ、と。
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato 2013年12月30日
A_Ka81 やはり、私も実際にこのあたりを走ってみてそう感じました。大小様々のため池が多いですね〜
にょろ @hyoloro 2013年12月30日
明石にこんな疎水があるのは知りませんでした。お隣の稲美や加古川もため池が多いですね。リンク先の、西区の一部も西明石文化圏、というのに納得。関係ないですが西区平野と言えば平野神社下の玉津ラーメンが美味しい。
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