僕は基本的に情報は絞っていくべきだと思っている。決断するところは極力少なく、そのほかの部分に関しては最終的には委任する。過程に携われる可能性があるときは、その部分を1から問い直す。問い直すために”会話”という手段を使う。つまり僕は会話できる相手が居なければほとんど無知のままである
2013-12-29 19:05:34情報を得ること、考えること、これはどちらも有益な行為だし、進歩的な行動だと思う。しかし、このどちらもに関わることは、情報を得て考え始めたその”問題”をどこまで考えるかという深度の問題に行き着く。その姿勢に熱意と歓びがなければ、その行為はほとんど中途半端に留まってしまう。
2013-12-29 19:07:44中途半端じゃないということがあるのか、と問われればない、と答える。出来る限り沢山のことを勘案した結果導き出された結果だとしても、それはかなり再現性と具体性が高い意見というだけであって、絶対的な正しさには到底なりえない。
2013-12-29 19:09:50自分にとっての正しさというのは求めるべき回答だと思う。皆ある意味ではそこを目指している。しかしその自分にとっての正しさこそ、他を不用意に扇動し巻き込む争いの種になり得るという事実は見逃せない。であるからこそ、それでもその暴力性を受け入れてでも想像し発したいと感じる物のみに注力する
2013-12-29 19:12:47人には好奇心があるしその強度もばらばらだから、色々なことに色々な熱意の強さを持って色々な人が触れる。その結果はその人の人生経験と思考形成の一環となって、独自の見解と、理想と、想像を持つようになる。その意味では誰も批判することはできない。
2013-12-29 19:15:23経験は体験とは異なり、体験は事実だが、それをどう経験に変えるかにはそれまで培ってきた思考形成が大きくかかわる。経験主義はやむを得ないことだが、自分というフィルタを通してある意味歪曲された真実を自分の心に楔として打ち付ける行為である。
2013-12-29 19:17:49経験を積み重ねれば重ねるほど、体験の中で容易に経験を抽出することができるようになる。それは自分の主義が強固になったという証明でもあるし、自分の中に変化がなくなってきているという停滞の証明でもある。体験の中から経験を引き出すのか、体験を通して変化を引き出すのか。この問題は凄く大きい
2013-12-29 19:20:18恐怖を真正面から受け止めていない時は、恐怖によって思考が歪められていると考える方が妥当である。しかしだからと言って恐怖がなくなればいいという話では決してない。恐怖に対してどう向き合うかという闘志と闘争の意識があるかどうか、ということを指す。
2013-12-29 19:22:40人は我慢がならないのだ。それは怖さと直結する問題だから、反応してしまう。それは防衛本能というものだ。ただし反応した後は振り返らなければならない。でなければ、それは怖さと向き合ったのではいから、今後も怖さに反応し続けるのみである。それはつまり保留できない、拒絶しかできないということ
2013-12-29 19:34:39求められたことに全て見解を発しなければならないのであれば、人は一人で十分だ。知らないことによって偏っていくということはもちろんあるが、それ以上に知れば知るほど偏っていくのである。その怖さについて考えもせず利口になったと思っていると勘違いしていると、その人との会話が途端に難しくなる
2013-12-29 19:29:14迷いというのと不安というのは似ている。迷いも不安も、捨てられないということを意味する。迷いや不安から闇雲に情報を探し、迷いや不安からそれらを後生大事に保管し、それらから何らかの見解を導き出すことで安定化をはかる。
2013-12-29 20:24:08迷いや不安から生まれた結果は、迷いや不安のバイアスがかかった見解を生む。基本的にそれらはラディカルなものか、保守的なものかの2択である。そのいずれの考えに、本当は自分自身が一番納得していないはずなのである。その声を聴かなければいけない。
2013-12-29 20:28:39情報は心の荒みを打ち消すために拾うものではない。思考もまた同義。心の平静を保っているときに、自分が捉えている”仕事”を全うするために使うものである。
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