アートシーン(2014年)

2014年の展覧会その他美術に関するトゥイートを集約。
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sjo k. @sjo_k

《かなり大きい熊手》 村上隆 2014年 ミクストメディア 443.3cm×307.1cm  【借金の使途「かなり大きい熊手」 渡辺代表会見3 - 朝日新聞デジタル (http://t.co/vMGStNt6nI) http://t.co/T6UxpE8Oky

2014-03-28 11:40:22
sjo k. @sjo_k

岡本太郎美術館の岡本太郎現代芸術賞展へ。まず印象を残したのは小松葉月。学校(級)制度という、人間に強い負荷をかけ続けるシクミの隠微な暴力性を、〈こどもの時の自分〉の痕跡と〈おおきくなった自分〉の記憶をないまぜに積み上げることで顕在化させる。なんというか、身につまされた。

2014-03-30 09:43:21
sjo k. @sjo_k

続いて、赤松音呂。薄暗い部屋に置かれた沢山のグラス。グラスには水が入っていて、針が浮かべられ、コイルが貼り付けられている。(おそらく)このコイルに不規則的に微弱な電流が通される。コイルは電磁石となって針を呼び寄せ、針がグラスを叩く。 その微かな音があちこちで鳴るのを聴く。

2014-03-30 09:43:29
sjo k. @sjo_k

想起したのは、12年秋に東京都現代で観たブルシエ=ムジュノ(http://t.co/jdmMyUk7xq http://t.co/RxDblbF5mr)や府中市美術館で観たmamoru(http://t.co/2y1U8TOh4J http://t.co/CKx1XJcdFS)。

2014-03-30 09:43:39
sjo k. @sjo_k

ただ、前ツイートの枠組に沿えば、赤松の作品に「日常性」はない(私たちはふつう水を張ったグラスに針は浮かべないしコイルも貼らない)。類似性を感じたのは、「日用品」を使っていることによるのだろう。さしずめ赤松の作品は「極めて洗練された環境装置」として優れている、というところか。

2014-03-30 09:43:52
sjo k. @sjo_k

最後にキュンチョメ。居住制限区域に除夜の鐘を鳴らしに行く、など「社会性の強い」作品だが、迷いや恐れを隠そうとせず、「弱弱しさ」を湛えているのが魅力的だと思った。「向こうの明かりが希望の光に見えるよ」「あれ第二原発」という暗闇のやりとりには吹き出し、後、なんと示唆深いことかと唸る。

2014-03-30 09:44:05
sjo k. @sjo_k

森美術館のアンディ・ウォーホル展へ。「ウォーホルというのは方法論とその世間への売り込み方がすべて、という感じの人で、その作品、というかプロダクツの「現物」を観ることにはさして重要な意味はないのでは」、という鑑賞前の想定を覆すような作品はなかった。要するに、面白くはなかった。

2014-04-28 20:29:13
sjo k. @sjo_k

ウォーホルが美術史に名を残すことになったのは、自身の一挙手一投足や存在自体を「アート的」文脈に引き込むのが巧かったからだろう。そういう彼が「うまくいっているビジネスこそ最高のアートだ」と言う時、そこに複雑な含意はない。それはつまり「俺こそアートだ」ということを意味するのみである。

2014-04-28 20:30:12
sjo k. @sjo_k

MAM PROJECTのガブリエル・アセベド・ベラルデ《舞台》は印象的。1月に国立新で観た榊原澄人を想起させる(が、あれほど美麗でも多弁でもない、が故に、余計に威力がある)悪夢のようなアニメーション。循環させず、全体構造が見えたところで終わらせる方がより衝撃的だったのではないか。

2014-04-28 20:48:37
sjo k. @sjo_k

国立新美術館の中村一美展へ。前半、《西丹沢》《北奥千丈》《方法を持つ者IV》《恵那》《破風III》、そして「開かれたC型」の部屋と、次々に現れる圧倒的な作品に目眩み心躍る。しかし、外光が降り注ぐ休憩室を強制的に通過させられたあとの後半は反転。印象的な作品はほとんどなかった。

2014-05-04 20:04:04
sjo k. @sjo_k

そのため、あまりに対照的な前半と後半の違いは何なのかを考えざるを得なかった。前半の作品には「決然さ」があって、それが鋭い美しさを生み出しているのに対し、後半の作品は色も形象も含意も「多弁」で、その「端的でなさ」がかえって美を覆い隠してしまっているのではないか、という気がした。

2014-05-04 20:04:25
sjo k. @sjo_k

ともあれ全体として、図録をほぼ迷わず買うほどには佳い展示だった。《恵那》の、赤と緑のリープマン効果によって迫ってくる筆の痕跡や、《破風III》《90717(60)―C opened(紫烈風)》の感情的な紫の激しい・直線な流れは、今でもありありと脳裏に呼び起こすことができる。

2014-05-04 20:05:01
sjo k. @sjo_k

frantic galleryの「2014 FRANTIC UNDERLINES」へ。清原亮の一群の作品を覆う〈ねっとりとした作為の痕跡〉が際立って印象的だった。〈冷ややかな快〉の感情を招く高森幸雄の作品群も。そして、ギャラリーの隣のカフェのカレーが、思いのほか美味かった。

2014-05-17 17:24:04
sjo k. @sjo_k

franticは、かなり「開いた」空間で、建物全体の雰囲気からしても、静謐な場所とはなり得ないだろう。今回の出展作家のうち、(少なくとも)笹山直規と杉本克哉の作品は、空気が動かないような、すごく「閉じた」空間で向き合えたら、もっと響くものがあったのではないか、と思った。

2014-05-17 17:36:46
sjo k. @sjo_k

オペラシティアートギャラリーの「絵画の在りか」へ。24人の合同展だが、「見たことのあるような作品」がほとんどだった。惹かれたのは小西紀行と工藤麻紀子。小西の〈ひも人間〉は、不気味さの内に有無を言わせぬ説得力を感じる。工藤の絵には独特の「えぐ味」があり、それが印象を後引かせていた。

2014-07-20 15:29:28
sjo k. @sjo_k

森美術館のゴー・ビトゥイーンズ展へ。人生で初めて母親と美術館に行ったのだが、彼女は意外なほど先入観やこだわりなく目の前のいろいろなものを楽しんでいて(≒「意味がわからない」とか「難しい」とかいった類のことは一切口にしなくって)、ちょっと感心した。以下はいつもどおり私の感想。

2014-07-23 21:05:53
sjo k. @sjo_k

序盤はあまり引きつけられるものがなくて(なんというか、「恵比寿の写真美術館的だなぁ。こういうのは森で観なくてもなぁ」という印象)、そこに奈良美智が出てきて、「ウホッ!いかにも!さもしい!」と思った、のだが、進んでいくにつれ、なかなかどうして粒揃いだ、という感想に変わっていった。

2014-07-23 21:06:37
sjo k. @sjo_k

米人の父親とその養子になったアジアの子供のツーショットを撮るジャン・オーのシリーズ。国(籍)を括弧に入れる人間の理性と、その向こうに立ち上がる「愛」の可能性を想わされる。中国のドラァグ・クイーンを撮る菊地智子《迷境》は、以前写美で観た時と同じ、剥き出しの生/性にアテられる感覚。

2014-07-23 21:07:03
sjo k. @sjo_k

何かに没頭している子供の姿を撮る小西淳也のシリーズは、まったく月並みな表現で恥ずかしいが、「子供の世界」を劇的に表現することに成功している。「家族」という関係の醜い・負の部分を、雑誌の記事のような体裁で見せるトレーシー・モファットのシリーズには、強烈な「真」がある、と感じた。

2014-07-23 21:07:25
sjo k. @sjo_k

テリーサ・ハバード/アレクサンダー・ビルヒラー《エイト》とウォン・ソンウォン「7歳の私」シリーズは、前者がループする実写映像、後者がフォトコラージュと手法は違うものの、どちらもが、鮮烈なひとつの物語を打ち立てながら、それでも観者の想像力を差し込む余地を残す、印象的な作品。

2014-07-23 21:08:26
sjo k. @sjo_k

サンテリ・トゥオリ《赤いTシャツ》は、赤いTシャツを着ようとしてもがく幼児のスロー映像。まずは、ただただ笑ってしまう。そして、(テクノロジーによって)「日常」の速度を変化させて見せるだけで、観者から何らかの感情を引き出せて(≒「アート」にできて)しまうのは見事だな、と思った。

2014-07-23 21:09:31
sjo k. @sjo_k

宮城県美術館の常設展へ。瑛久、山口長男、岡本信治郎、元永定正、田中敦子、白髪一雄、李禹煥などの佳作がひととおり揃っていた。特に惹かれたのは桂ユキ《婦人の日》。腰に巻いた縄・手にした箒の写実性と、デフォルメされた本体の対照が印象的な婦人像。これが60年前の作品だというのにも驚いた。

2014-09-21 20:28:44
sjo k. @sjo_k

森美術館の「リー・ミンウェイとその関係展」へ。作家の作品には、強く引かれるものはなかった。「面白くなくはないのだが、新しくない」という印象。むしろ、中間の「参照作品」のパートが面白く、とりわけ田中功起の、居酒屋の調理場の様子を撮影した映像作品《どれもこれも》が秀逸だった。(続く)

2014-12-13 18:42:28
sjo k. @sjo_k

居酒屋の調理場で、Tシャツ姿の若い料理人が働いている。「それだけ」の映像である。しかし、注意深く観ていると、すぐに気付くことがある。仕込みや調理の過程が、速いカットで断片的にひたすら続くのだが、料理の完成品が決して現れないのだ。その意味で、これは料理の過程の映像ではない。(続く)

2014-12-13 18:42:36
sjo k. @sjo_k

もう一つ、まな板を洗う、包丁を拭く、などといった「片づけ」のシーンが多く含まれていることにも気付くだろう。そこで私は、この映像は(料理ではなく)「手際」を見せているのだ、と気付いた。しかも、ただ見せるのではなく、周到な編集によって、料理人の「手際」を増幅させている。(続く)

2014-12-13 18:42:43