鎮霊社についてあれこれ

靖国神社の元宮に隣接する鎮霊社について、池田先生の遣り取りから数日前の四方山話を思い出し作成しました。
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もうれつ先生 @discusao

訂正:「国際的な慰霊神社」を建立したのは、六代目宮司の松平永芳じゃなくて五代の宮司筑波藤麿でしたね。失礼しました(-人-;) 松平宮司は就任早々A級戦犯合祀を決めたので昭和天皇が名指しして非難した人でしたQT @simanekomama そこはよく知りません。RT松平宮司

2014-01-22 18:43:35
シマシマネコのママ 🌗💙💛🌈(人民。戦争反対。憲法改悪反対。原発動かすな。PCR検拡充を) @simanekomama

@discusao  ありがとうございます(^o^)/  経緯をみて、松平氏は、それをするために就任したのでは、と、思っています。私見ですが…

2014-01-22 19:25:08
もうれつ先生 @discusao

保守系の秦郁彦や保阪正康もそういう見方ですね。富田メモで名指ししてるなんて知らなかったなぁ。http://t.co/GqVtyu7si4 QT @simanekomama 松平氏は、それをするために就任したのでは、と、思っています。私見ですが

2014-01-22 19:39:00
シマシマネコのママ 🌗💙💛🌈(人民。戦争反対。憲法改悪反対。原発動かすな。PCR検拡充を) @simanekomama

@discusao  経緯をみるとそうとしか。 宮司の資格って取るのに時間かかるんですよ。 普通はそういう学校に通うんです。まあ、通信教育とかも、あるらしいけど。 特例だと思います。

2014-01-22 19:49:05
もうれつ先生 @discusao

@simanekomama 宮司の資格って取るのに時間がかかるんですよ>←ああ。「宇佐八幡宮旧権大宮司家を相続した人」って話題になりましたね。松平宮司って53歳まで軍人人生歩んで、63歳で宮司に就任してるんですよね。別格官幣社の別格って、その辺の機微にも通じてるのかな?

2014-01-22 19:59:19
シマシマネコのママ 🌗💙💛🌈(人民。戦争反対。憲法改悪反対。原発動かすな。PCR検拡充を) @simanekomama

@discusao  うーん、よくわかりません(--) もっと勉強しないとわからにゃいかも。 いまの形は、いろいろよろしくないと思いますけどね (政権が絡みすぎるので) 神社の存続には意義はないですが、政権が利用するのがいや。

2014-01-22 20:10:49
もうれつ先生 @discusao

@simanekomama 神社の存続には意義はないですが、政権が利用するのがいや>←さっきの「国際的な慰霊神社」=「鎮霊社」に安倍首相が参拝したことを過大に評価する人もいるようです。安倍さんも田母神さんも現代っ子だから信心薄いでしょ http://t.co/4llsaSfqjv

2014-01-22 20:21:07

この路上明さんのまとめは「安倍晋三総理は鎮霊社にも参拝したから世界平和を祈念してる」という意味だよね。本人は「靖国に参拝したことだけ報道して鎮霊社にも参拝してることを報道しないのは偏向している」という主張なんだろうけれど、文脈としては鎮霊社の全方位性がフラットなものとして了解され得ると考えてるわけだから同じこと。

wikiだと、慶応4年の各地における招魂祭・慰霊の祭典から靖国の歴史が始まっている。
村上重良『慰霊と招魂』によれば、
1.ペリー来航に先立つ嘉永4年(1851)4月、長州藩主毛利敬親が藩史上の忠烈の臣を偲び、毛利氏菩提寺・臨済宗洞春寺に銀十枚を納め供養料とする。同年10月、戦場その他で死亡した者の氏名、死亡の年月日を可能な限り遡って調査し藩庁に提出させた。
2.2年後の嘉永6年(1853)4月、先の例に則り古来の忠死者、戦没者の過去帳をつくって洞春寺に納め、6月14日同寺で仏教式による弔祭を営む。以後毎年同日に弔祭を行う。
3.文久2年(1862)津和野藩士の国学者・福羽美静が中心となり幕末維新の志士46人の「霊慰」のため、京都福羽家の邸内に幕府の目を憚って密かに招魂の祠を建てる。これが靖国神社の前身となり、昭和6年靖国に奉納―つまり靖国境内に遷社される。この元宮は靖国本殿の左手(南門側)に鎮霊社と並んで建っている。つまり、元宮が建っていた場所に鎮霊社は創建された訳。

リンク www.yasukuni.or.jp 拡大境内図|境内のご案内|靖国神社 明治以降の日本の戦争・内戦において政府・朝廷側で戦歿した軍人らを祀る神社。概要、年表、拝観案内。

1と2は仏教による供養・弔祭、3は神道による霊慰。3以後神道に慰霊・招魂の役目がシフトするのは幕末の尊皇思想による廃仏毀釈の流れ。津和野藩は水戸藩・長州藩と並んで廃仏の魁となった藩で、福羽美静は「神道津和野教学」の中心人物のひとり。3の文久2年は王政復古の気運による古墳の修繕(実質的は「創造的改築」)である「文久の修陵」の年でもあり、仏教を排し神道を国教にする新しい秩序造りの一貫であったことが分かる(そして神仏混交が分かちがたく神道国教化は失敗するのだが)。もっとも当初の明治政府は、仏教だけでなくキリスト教も江戸時代を凌駕する勢いで弾圧しており、流刑者の送り先には津和野藩も指定されていた(津和野では流刑農民の四分の一が殉教したという)。また、陰陽道系の天社神道、六十六部(乞食行と見做され卑賤視)、普化宗(虚無僧)修験道なども禁止、廃止の措置が取られた。

で、鎮霊社に話を戻すと、

1.厚生省援護局に入り込んでいた旧軍人グループや靖国神社総代会のメンバー(A級戦犯から赦免された賀家興宣を含む)等によるA級戦犯合祀の運動があったのだが、第五代宮司筑波藤麿は拒絶していた。
2.筑波宮司は昭和38年秋に欧米の無名戦士の墓を視察、各国の宗教関係者と会見し、帰国後鎮霊社建立を発案。昭和40年7月建立。<不特定多数の祭神を祀る慣習は神道にはないので異論も出たが、宮司の強い意向で実現したという>(秦郁彦「靖国神社『鎮霊社』のミステリー」文芸春秋2001年11月号収録)。<秦は「これはA級戦犯の『怨霊』の落ちつき先として造ったのではないか」とある権宮司に質した。答えは否定的であったが、結果的に昭和40~53年の10月(A級戦犯合祀直前)までここに祀られていたことは認めた。>(保阪正康『「靖国」という悩み』)
3.「嘉永6年以降、幾多の戦争・事変に起因して、非命に斃れ、職域に殉じ、病に斃れ、自ら生命を断った命達にして、靖國神社に祀られざる諸々の命の御霊(みたま)一座と西暦1853年以降、幾多の戦争・事変に関係して、死歿した諸外国人の御霊一座」を祀っている。具体的には「白虎隊や西郷隆盛、湾岸戦争やユーゴのコソボ自治州での紛争犠牲者などの戦没者が含まれる」という。国を靖んずるという靖国のコンセプトから大きく逸脱あるいは対立する、とは保阪正康の言。言うまでもないが、カーコニコバル島住民虐殺事件やシンガポール華僑粛清事件、父島人肉食事件や海軍生体解剖事件などの犠牲者が入っているわけではない。
4.鎮霊社は昭和49年非公開となる。筑波宮司は昭和53年死去し松平永芳が引き継ぐ。松平は旧海軍軍人(少佐)で戦後は自衛隊員(1等陸佐)という経歴だが、靖国神社は創建後しばらくすると軍人が宮司となるようになったので、「伝統的」にはおかしなことではなかった(つまり敗戦後に宮司となった非軍人の筑波が異例であった)。
5.元軍人の松平は当然援護局や総代会の意を汲み(というかその運動の中にいたのだろうけれど)、A級戦犯を合祀する。昭和天皇はこれに憤り、富田メモに<筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と 松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ>(松平父=慶民、松平子=永芳)と記される。

リンク Wikipedia 富田メモ 富田メモ(とみたメモ)は、2006年7月に日本経済新聞によりその存在が報道された元宮内庁長官・富田朝彦がつけていたとされるメモ(手帳14冊・日記帳13冊・計27冊)。特に昭和天皇の靖国神社参拝に関する発言を記述したと報道された部分を指す。昭和天皇が第二次世界大戦のA級戦犯の靖国神社への合祀に強い不快感を示したとされる内容が注目された。メモ全体の公刊や一般への公開はされていない。 公開された富田メモの一部は以下の通りである。靖国神社についての発言は1988年4月28日(昭和天皇の誕生日の前日)のメモにあった
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で、「カーコニコバル島住民虐殺事件」云々て名前を出したのは、「ノイエ・ヴァッヘ(ドイツの戦没者追悼施設)について」と「 ヒトラー『我が闘争』出版中止/最近の「過ぎ去らぬ過去への取り組み」の傾向」という2つのまとめを支点に廻らせた考えなんだけど、要するに「戦争と暴力支配の犠牲者追悼施設」=ノイエ・ヴァッヘを設立する際に野党は「ナチの犯罪者も合わせて追悼することになる」「被害者と加害者の関係が曖昧になる」と批判したわけです。成り立ちから考えても、ノイエ・ヴァッヘと鎮霊社は対比し得るものですよね。
だからこそノイエ・ヴァッヘの追悼仕様には、
・国際テロ(ミュンヘン・オリンピック事件、9・11テロなど)の死没 者は追悼対象には含まれない。
・PKOによるドイツ人死没者は、ドイツの国家権力が不正を働いたこと による犠牲者ではないので、追悼対象には含まれない。
・いわゆる戦犯者は、「加害者」であり、「犠牲者」には含まれないとの 解釈である。従って、戦争犯罪人で有罪判決を受けた者、一般市民・抵 抗運動家・捕虜らの殺害に加担した者の死没者は、追悼対象から除外されている。
という条文が記されているということなのであります。慰霊とか鎮魂という行為は「被害者と加害者の関係性」を明確にしたままだとなかなか立ち行かないのかもしれないけれど、敵も味方も鎮魂の区別なしとすれば――それが政治的文脈を超えた鎮霊社の本義であるならば先の犠牲者たち(をこそ)祀らなければ、という話になるんじゃないかと考えた次第。