フランス発の囲碁小説「居眠り名棋士」

フランスの囲碁機関紙で連載していた囲碁小説「居眠り名棋士」を公開しています。11月20日、総合法令出版から発売です。
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居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(26)それに一番解せないことは、自らが受けている富の真価を武蔵がありがたく思っていないことだった。珠玉より草花、玉座の間より庭園、武蔵のためにあてがわれた屋敷の一間より、小川を見下ろす竹の縁側を彼は好んだ。

2010-10-27 13:45:21
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(27)周囲からの妬みや恨みはおろか、領主の屋敷のなかにも、誰よりも武蔵の存在が許せないという妬み深く陰気な性格の男がいた。男は、武蔵への憎悪の火をひたすら燃やし、彼を破滅へ追いやってやると自らに誓っていた。その名は比呂。

2010-10-27 14:30:40
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(28)比呂は碁の才能に長けた男だった。おそらく、武蔵に継ぐ最強の棋士だった。しかし、その名人のせいで、自分に光が当たらないことに我慢がならなかった。

2010-10-27 15:15:43
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(29)比呂は、当てにならない天の導きが、自分が在るべき最高の地位を不当に奪っているのだと確信していた。武蔵が一身に受けている巨富のすべては自分に与えられるべきものだ。武蔵がいまだ自分に負けていないのは、単なるまぐれなのだと……。

2010-10-27 16:01:13
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(30)比呂は、度重なる試合で武蔵に挑戦したが、達人を揺るがすに足りる攻撃は不完全に終わっていた。そして、見物人を前に敗北を甘んじて辱めを受けた比呂は、その事実が毎回肩に重くのしかかり、武蔵への敵意をさらに募らせた……。

2010-10-27 16:45:47
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(31)比呂は、腸が煮え返るような思いでこの状況を耐え忍び、日々悶々としながら毎晩悪夢を見続けた。それでも比呂は決して降参しなかった。溢れる栄誉と領主の寵愛を一身に受けることを渇望し、どんなことがあろうともこの計画を貫き通したかった。

2010-10-28 10:02:19
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(32)さらに、毎回敗北という屈辱を受けながら、新たに武蔵に挑むことに勇み立っていた。絶えず武蔵を呪い、歯を食いしばりながら自制した。

2010-10-28 10:45:20
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(33)人間とはこういうことだろう。自分の名誉のために野心を燃やす者は、それがうまくいかなかった時、極端に恥をかいたと思い込む。そして、自分が望んだ地位にいる者を逆恨みするのだ。

2010-10-28 11:32:23
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(34)夜になると比呂は、再び腸が煮え返る思いに苛まれながら鏡の前に一人で向かい、どんな手段を使ってでもいつか武蔵に復讐してやると自らに言い聞かせ、鬼気迫る表情をした。

2010-10-28 12:15:47
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(35)さて、神は時として悪人に肩を持つことがある。ついに、比呂の刃が武蔵へ向けられる時が来た。しかも、ある女が一枚噛むことで――。その女とは言うまでもなく、武蔵の妻である。

2010-10-28 13:01:00
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(36)【三】武蔵は、結婚したその日以来、ずっと妻を深く愛していた。しかし、彼女の最近の目に余る気まぐれや見苦しい行動に苦痛を覚え、それに耐えていた。

2010-10-28 13:45:42
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(37)彼女は、屋敷の取り巻きとかかわるなかで、腹黒くうぬぼれ、毒にまみれた女へと成り下がった。しかし、多くの者は彼女が手にした権力を恐れ、嫌悪することさえ控えた。

2010-10-28 14:30:22
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(38)魅力に満ち溢れたこのうら若き女は、当時の美の条件をすべて満たしていた。しかし、荒んだ内面や醜い心、そして性の悪さは底なしだった。おまけに、誘惑や挑発を求める遊女のごとく、化粧や装いが過剰になった。

2010-10-28 15:16:02
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(39)一方、武蔵は、母の影響で幼少のころから馴染んでいる、簡素で品のある衣をいつもまとっていた。

2010-10-28 16:01:10
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(40)今となっては珍しい光景となったものの、この夫婦が一緒にいる姿を見せる時は、お互いが天と地の差ほどに調和を欠いた様子が目立った。共通点の欠片もない別世界からやって来た息の合わない他人同士が、抑制不能な力によって、もしくは何かの手違いでかろうじて繋がっているように映った。

2010-10-28 16:45:28
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(41)武蔵の妻が、猫のような物腰や蛇を思わせる目で野次馬に笑みを振りまいている時、武蔵は視線をそれに向けることもなく、心ここにあらずという様子でまっすぐと前に進んだ。

2010-10-29 10:02:34
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(42)目には見えない大粒の涙がゆっくりと頬を伝っているかのように見えるのだった。一歩踏み出すごとに、愛情や幸福が失望によって朽ち果てていくことに寡黙に涙しているかのようだった。

2010-10-29 10:45:46
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(43)精彩を欠いた武蔵の無表情な顔つきからは、深い悲しみが心の鏡となってはっきりと汲み取れた。その悲しみは、武蔵の人生のありとあらゆる刹那を毒することになってしまった。碁の名手は体が硬直し歩調も鈍り、言葉さえも失った。

2010-10-29 11:31:02
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(44)ある日、武蔵は竹の縁側で俊博(しゅんぱく)と一局交わしていた。旧友の俊博は武蔵のその有様を黙って見ていられなくなり、とうとう沈黙を破った。

2010-10-29 12:15:39
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(45)「我が友、武蔵よ。我はお前に言っておかなければならないことがある。それは、親友の一人の身に起きたことだ。よく聞け。ある日、我が友は市へ行き、家に飾るために籠一杯の美しい薔薇を買った。彼はとても喜び、その綺麗な花を得意げに家へ持ち帰った。

2010-10-29 13:00:33
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(46)しかし、彼がその籠を開けた瞬間――何が起こったと思うか? わからないだろう! 教えてやろう。蛇だ! 一匹の蛇が薔薇の花弁と葉の奥に身を隠していたんだ……。彼はそいつを捕まえて追い出そうとしたが、蛇は執拗にこれを逃れ、棘の間に潜り込んでしまい捕まえることができなかった。

2010-10-29 13:45:10
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(47)その蛇を退治する方法はひとつ。それは、花も一緒に捨てることだった。しかし、友は薔薇のあまりの美しさに目を眩ませていた。だから花籠を捨てられず、蛇が中に居ることは考えないようにして過ごした。

2010-10-29 14:30:44
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(48)その後、苦悩に満ちた生活が彼を待ち受けていた――毎晩、その蛇が籠から姿を現し、激しい鳴き声で威嚇しながら家の廊下を這った。そして、奴が動く方々で、友が大切にしていたあらゆるものがひっくり返され、破壊されていった。

2010-10-29 15:15:29
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(49)夜が明けるころ、蛇は再び籠の中に戻り、薔薇の奥にその姿を隠した――。我が友は、眠ることもできず衰弱し、すべてのことに手つかずとなり一時の安らぎさえも得られなくなってしまった……。

2010-10-29 16:00:54
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(50)ある日彼が、花弁の奥から威嚇を止めない蛇が潜むその薔薇を改めて見つめていると、不吉な蛇をかくまうその薔薇に対して愛着が失せてしまった。いくら麗しい薔薇でも、このおぞましい蛇を忘れさせてくれるには及ばなくなった。その後、友はどうしたと思うか?

2010-10-29 16:45:21
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