フランス発の囲碁小説「居眠り名棋士」

フランスの囲碁機関紙で連載していた囲碁小説「居眠り名棋士」を公開しています。11月20日、総合法令出版から発売です。
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居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(1)それは八世紀初頭、奈良時代のころである。先の元号名が継承された大宝律令が大宝末年に制定され、朝廷主導による新しい封建制度や官僚制度が樹立されるなど、日本はまさに栄華を極めた時代を迎えていた。

2010-10-25 10:00:45
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(2)母である先代・元明天皇の退位後、娘の氷高皇女に譲位され、彼女は元正天皇として君臨し、国を治めた。しかし、女帝・元正天皇は、わずか数年でその座を退くことになる。当時、十四歳だった首皇子が後に即位するための、いわば中継ぎの役目を果たしたまでだったからである。

2010-10-25 10:30:51
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(3)元正天皇はその十年足らずの在位中、後の聖武天皇となった首王子へその座を明け渡すまで、立派にその役割をまっとうし、陰謀や策略によって首王子を追放するような思惑を持つことは毛頭なかった。

2010-10-25 11:00:44
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(4)女帝が貫いたその真摯な姿勢から学ぶべきことはたくさんあるが、今から話す話は、彼女とは対照的に、野望のためならどんな手段もいとわない者の物語である――。

2010-10-25 11:30:46
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(5)当時、奈良の都から数十里離れた、とある地方の有力領主の屋敷に、武蔵と名乗る碁の達人がいた。武蔵が見せる巧妙な碁の技は相当なもので、彼の実力を揺るがす者は誰一人いないほどの腕前だった。その革新的な戦法は他の名手たちを恐れさせた。

2010-10-25 12:02:14
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(6)彼の名声は河を越え国境を越え、瞬く間に世の中へと広まり、各地の領主や人々から高い賞賛を受けた。武蔵の故郷に暮らす者たちは、自分たちの英雄が成した快挙をとても誇りに思っていた。まるで、日々の生活に幸福を与えてくれる、ありがたい神のように武蔵を崇めた。

2010-10-25 12:30:34
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(7)誠実な人々を敬う謙虚な性格の武蔵は、自分の故郷へよく帰った。生まれ育ったその村に姿を見せれば、村人たちは皆親しみをこめて彼に声をかけ、武蔵は尊敬の念を一身に集めた。

2010-10-25 13:00:28
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(8)武蔵は物欲がまったくない男だったが、村人たちは彼への敬愛の証として、折にふれ菓子や果物、酒を武蔵へささげた。それらの贈り物は、どれも貧しい農民たちにとって最高の贅沢品であった。

2010-10-25 13:30:17
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(9)武蔵は村人たちへ真心を込めてお礼を言い、それらを丁重に受け取った。武蔵はいつも、菓子の質の高さや果物の色つや、酒の出来栄えに感嘆の声をあげていた。

2010-10-25 14:01:03
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(10)その地方を治めている領主は、武蔵が得る日々の幸福が自分のおかげであることを方々に知らしめたく、武蔵をお抱え棋士にしたのだった。

2010-10-26 10:00:47
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(11)領主は、武蔵が自分に忠誠を誓い敬愛するかわりに、他の者には到底真似できない生活を武蔵に用意した。膳の際には、武蔵は日夜、贅を尽くした山海の珍味を食し、美酒をたしなんだ。

2010-10-26 10:45:36
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(12)武蔵には若い妻がいたが、彼女が外出する際には、かならず新しい宝飾や真珠、装飾品、それに芳醇な香が持たされた。それらの贈り物は、どれもすべて権力を握るこの領主にとって大したことではなかった――。

2010-10-26 11:30:41
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(13)武蔵自身は、これらの品々をやむなく受け取っていた。頭を軽く下げ、節度をもって感謝の意を表した。しかし、領主に対し、これらの高価な品々に関しての世辞を伝えることもなく、寡黙に嬉しそうな表情をするだけだった。

2010-10-26 12:15:30
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(14)屋敷の一間が武蔵と妻のために用意された。そこは、二人が来たい時にいつでも使え、好きなだけ居ることができた。屋敷の中では、この夫婦専用の使用人もつけられていた

2010-10-26 13:00:29
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(15)そんな屋敷での贅沢三昧な暮らしは、どれをとっても武蔵の妻を大いに満悦させていた。だが、彼女が愛し魅了されていたのは「豊かさ」であって、自分の夫ではなかった。壮麗な屋敷や毒々しいまでの快楽だけが、彼女の生きる欲求を満たしているようだった。

2010-10-26 13:45:24
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(16)彼女は抑制を忘れ、屋敷の中での何ひとつ不自由のない生活による悪い習性を余すところなくひけらかした。嘲笑するものを笑い、話に尾ひれをつけ、良いことはほとんど言わず悪態ばかりついていたのである。

2010-10-26 14:31:04
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(17)招宴がある時、いつも退屈な武蔵は群集から離れぽつんとし、妻のそんな姿を見ては悲しんだ。若妻とは対照的に、武蔵は庶民的な男だった。権力者を後ろ盾にすることや、贅沢や豪華な装いには興味がなく、むしろそういうものから避けていた。

2010-10-26 16:13:39
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(18)小さくて粗末な家だが、小川に張り出した竹の縁側に静かに腰を下ろし、旧友の俊博と碁の手合わせをすることが武蔵にとって至福の時間だった。しかし、皆にその一流の腕前を披露するようにと、領主から直々にお呼びがかかれば、妻がはしゃいで喜ぶ屋敷へ心ならずも出向いた。

2010-10-26 16:16:32
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(19)【二】碁の対局はいつも夜遅くに行われた。対戦の時を待つ間、武蔵は一日を庭園で過ごし、緑を眺めては瞑想に耽った。盆景の緑に囲まれて腰を下ろし、静寂のなかに身を委ね、蘭の茂みを賛美したり、庭に植えられた待宵草が花開くようすを丹念に鑑賞した。

2010-10-26 17:02:54
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(20)部屋が夜の帳に包まれたころ、新しい対戦相手との一局のために、誰かが武蔵を迎えにやって来た。武蔵が出場する一局は、屋敷のあらゆる催事のなかでも一番人気を博していた。

2010-10-26 17:30:40
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(21)対戦は、屋敷で最も格式の高い大広間で領主と取り巻きが見守るなか行われた。試合の度に、見物人が興味深げに押し合いへし合いで碁盤の周りに群れを成した。多くの者は真剣に対戦を楽しみにしており、冷やかし半分で来る者は少なかった。

2010-10-27 10:00:35
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(22)また、達人が再び勝つ姿を見たいがためにやって来る熱心な支持者もいた。しかし、武蔵が負ける瞬間が見られるかもしれない、という胸算用で、対局を見物する者も存在しないわけではなかった。

2010-10-27 10:46:06
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(23)敵を一切寄せつけない武蔵の評判は、まさに「出る杭は打たれる――」ということわざのごとく、本物の妬みとなって噴き出した。男衆は、自分こそが一番乗りに武蔵を倒すのだという期待を胸に、名人に挑もうと遠方からはるばるやって来ていた。

2010-10-27 11:30:37
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(24)武蔵に勝ちさえすれば、栄誉と信望を欲しいままにできることを、どの男も承知していた。おそらく今、その地位を独占しているのが武蔵であり、それを奪い取ろうという公算なのだろう。名高い敵を打倒するという点はさて置いて、その地位に皆興味をそそられていたのだ――。

2010-10-27 12:15:47
居眠り名棋士 @inemurimeikishi

(25)そんなわけで、数え切れないほどの敵が候補として名乗り出たのであるが、勝つのはいつも武蔵だった。そのことは敵方を面食らわせると同時に、妬みや僻みも買っていた。一部の者は、武蔵の桁外れの才能に恨みさえ募らせていた。

2010-10-27 13:00:17
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