山本七平botまとめ/【民族による臨在感のちがい】/民族それぞれに共有の感じ方がある/日本人は感じ方のちがいを無視する/無視するのが科学的だと思ってきた/感じながら理由を考えない

山本七平著『比較文化論の試み』/2 民族による臨在感のちがい/26頁以降より抜粋引用。
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山本七平bot @yamamoto7hei

①【民族による臨在感のちがい/民族それぞれに共有の感じ方がある】「常識」という言葉があります。 どの民族にもそれぞれの常識があるわけですが、この言葉はいわば「常識(コモンセンス)」すなわち「共通の感覚」です。 いわば感じ方です。<『比較文化論の試み』

2014-02-11 05:09:00
山本七平bot @yamamoto7hei

②この「感覚」とか「感じ方」とかは理屈がない訳ですが、この社会で最も困る問題は実はこの「理屈」にならない「感覚」なんです。これは説明の方法がありませんから、そこで…どういう風にして克服するのかという事はまず相手とどういう点で感じ方が違うのか、という処から入っていくよりしようがない

2014-02-11 05:39:09
山本七平bot @yamamoto7hei

③そしてこれは言ってみれば臨在感の差ということになってくるわけなんです。 臨在感というのは、簡単に言いますとある対象の背後に、何かが臨在するという感じで、これを持っていない民族はありません

2014-02-11 06:08:57
山本七平bot @yamamoto7hei

④だが、この臨在感には、民族的に大きな差があって、一つの対象を見る場合に、同じものを見ているようにみえましても、民族によって、見たものへの感じ方は非常に違うんです。 これについて面白い例があります。

2014-02-11 06:39:16
山本七平bot @yamamoto7hei

⑤東大の大畠清先生は毎年イスラエルに発掘に行かれるのですが、イスラエルには…日本が担当している発掘場があるんです。 …その古代の墓を発掘したところが、人骨がザラザラ出てきた。 …約十日間ほど、日本人とユダヤ人が一緒に共同してこの人骨を片付けていった。

2014-02-11 07:09:00
山本七平bot @yamamoto7hei

⑥その内に二人の日本人がちょっと変になってきたんです。朝から晩までお骨をいじってる…それで途中で微熱が出だしまして夜には変な夢を見て気分が悪くなってきた。 大畠清先生は…「どうもあの二人にはお祓いが必要だったらしい。実は二人はクリスチャンなんだが」と…言って笑われたんです。

2014-02-11 07:39:16
山本七平bot @yamamoto7hei

ところがユダヤ人のほうは一向平気なんですよ。 人骨がザラザラ出てくるのですが、それでも一向平気なんです。

2014-02-11 08:09:11
山本七平bot @yamamoto7hei

⑧【日本人は感じ方のちがいを無視する】これは我々日本人にとっては、人骨は単なる物質じゃなくてその背後に何かが臨在するという事なんです。そしてそれを感ずる訳です。 向こうの人はそれを感じないんです。 ところが逆に日本人が何にも感じない対象に彼らは何かの臨在感を感ずるんです。

2014-02-11 08:39:20
山本七平bot @yamamoto7hei

その一つが、ある場所への聖所意識または聖地意識になるわけですが、その場所に日本人はそういう意識は持たない。 こういう差ってのがありまして、これを無視できないんです。

2014-02-11 09:09:42
山本七平bot @yamamoto7hei

①ところがわれわれは、 そういう差を無視すること、それが文化だ、 と明治以来教えられてきたわけです。 それを教えた一人に福沢諭吉がいます。<『比較文化論の試み』

2014-02-11 09:39:12
山本七平bot @yamamoto7hei

②『福翁自伝』にありますけど、 お稲荷さんを開けてみたら石が入ってた。 そこで、それを引っ張り出してきて別の石を入れておいた。 ところが、やはりみんな疑念を持たずに拝んでる。 まことにバカな話だあれは石に過ぎないし、石を替えても、だれに何の影響もないではないか

2014-02-11 10:09:13
山本七平bot @yamamoto7hei

③こう書いてるんですが、日本ではこういう態度を科学的っていうわけです。 これは厳密に言いますと、サイエンスというよりは、むしろ、明治的な一つの啓蒙主義だと思います。 当時、いわゆる近代化を進めることを非常に急いだために、そういったものは一切迷信だと言わざるを得なかった

2014-02-11 10:39:22
山本七平bot @yamamoto7hei

④同時にその背後には、それを迷信として否定できる、松陰のような考え方があり、いれば日本の伝統の延長線上に啓蒙化を進めたわけですが、その行き方は結局、一つの石に対して人間はなぜ臨在感を持つのかということまで検討しないで、それは持ってはならないんだ、持つことは迷信なんだ、(続

2014-02-11 11:09:13
山本七平bot @yamamoto7hei

⑤続>持つ人間がおかしいんだ、 というふうに否定していったわけです。 【無視するのが科学的と思ってきた】「これは科学だから信ぜずなどという科学は存在しないはずですが、当時としては、これはこれなりに悪くなかったんです。

2014-02-11 11:39:13
山本七平bot @yamamoto7hei

⑥ところが、それがそのまま明治百年の一つの伝統になって人間は何かに臨在感を感じても、感じたと言ってはならない ということになりました。

2014-02-11 12:09:14
山本七平bot @yamamoto7hei

⑦しかし、感じてはならないと言いましても人間はみんなそれを感じ、その感じ方に差があるもんですから、それを感じてはならないというタテマエだけで物事を見ていきますと、いろんな点に誤差が出てくるわけです。 これが最近にいう科学不信、合理主義不信という言葉にもなると思うんです。

2014-02-11 12:39:17
山本七平bot @yamamoto7hei

⑧しかし、これは科学とか合理主義への不信と言うとちょっとおかしいんです。 元来科学とは、「不信」が前提ですから、「科学だから信ぜよなどという科学があるはずはなく、従ってこれは明治的啓蒙主義への不信と言うべきです。

2014-02-11 13:09:09
山本七平bot @yamamoto7hei

⑨というのは、そういう臨在感の差がなぜ生ずるかということを検討するのが科学であって、あるものをないと言ってしまうのはむしろ非科学的なんです。 われわれはそれを科学というふうに受け取ってそれで今まできてるわけです。

2014-02-11 13:39:12
山本七平bot @yamamoto7hei

⑩ですからそういう場合に、臨在感の違いといったものをはっきり見きわめまして、 その違いがどこから出てくるか、それを探求しよう ということは、今まで、全然やってないことになります。

2014-02-11 14:09:11
山本七平bot @yamamoto7hei

⑪…大正の中頃、石橋智信という東大の先生が初めて比較文化論に手を着けようとなさって『旧約の祭司法典と古事記との比較研究』を主題に研究を計画されたらしいんですけど、これが…時代的な要請などがあってできなくなりまして、結局…現在まできてしまったんです。

2014-02-11 14:39:17
山本七平bot @yamamoto7hei

⑫【感じながら理由を考えない】従って私達は一つのものに対して自分が何らかの臨在感を持っていて、その事がどういう理由に基づくかという検討は一切してないんです。 ユダヤ人が人骨…に平気なのに、日本人はなぜ…変になってくるのか。 この違いというものは一切研究されていないんです。

2014-02-11 15:09:07
山本七平bot @yamamoto7hei

⑬ですから、これが逆に出ますと、 他の民族がある別のものに対しては、われわれと同様、臨在感を感じているのだ ということに対して、今度はわれわれが全く無理解になってくる

2014-02-11 15:39:07
山本七平bot @yamamoto7hei

⑭日本の場合は仏教伝来以来、いわゆる仏像というものに対して手を合わせますし、神棚にも手を合わせる。 これはまあ、ずっと長いことやってきましたし、神社の前を通って何か感ずるかっていうアンケートを神社本庁でとりますと、約77%が何かを感ずるというんですね。

2014-02-11 16:09:11
山本七平bot @yamamoto7hei

⑮だから、何らかの臨在感を全然感じない人は非常に少なく、これは年齢層に関係がないんです。 なにかをあそこで感ずるそれでいて何を感じても、それがどういうことなのかということは検討しない

2014-02-11 16:39:24
山本七平bot @yamamoto7hei

⑯同じように、ある一つの構築物、あるいは一つの仏像、あるいは神棚・神社というものに対して、日本人ってのはなにか臨在感を感ずる。 感じていながらそれを自分で検討しませんから感じない民族のことも、別の感じ方をする民族のことも理解できなくなるんです。

2014-02-11 17:09:07