明治14年実測の牡鹿半島海図について(報告概要)

2014年2月28日に東京大学史料編纂所の研究会席上において発表した内容をまとめたものです。
人文
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明治14年の海図と『水路誌』について
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
先日2月28日に東大の史料編纂所で報告した内容(海図からみる震災―牡鹿半島を中心として)の概略を連投します。 この報告にあたっては、事前に、沢山の方に拡散をしていただき、情報をお寄せいただきました。御協力をいただき、誠にありがとうございました。以下、簡単ながら報告をいたします。
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
報告史料は明治14年実測、16年刊行の海図「日本中土東岸 遠島半島及金華山」(牡鹿半島全図、史料編纂所所蔵)です。関東大震災で当時の水路局の原図等が焼失したため、この時期の海図は非常に貴重です。(画質を落として全体像を掲げます。)  http://t.co/0PtVnEot8S
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佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
この海図は、海軍省水路局の作製。縮尺は1/43578。水深表記の単位は「尋」(fathom = 1.83m)、標高表記の単位は「尺」(feet = 30.48cm)で、イギリス海軍の単位系を踏襲しています。陸地部分は伊能忠敬の地図がベースになっていました。
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
この海図が歴史的に重要と考えた一つの理由は、作製された明治10年代が明治三陸津波以前であったこと。つまり、この津波以前の地理情報が海図に記録されていると推測したことです。さすがに目に見えるような地形の改変は無いでしょうが、集落の移動や地名の変遷はあったであろうと推測しました。
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
この海図の他に『寰瀛水路誌』(明治18年刊)があります。これも水路局の編集で、海図を測量した際の航海日誌と周辺地域の地誌をまとめた書です。航路や気象データの他に、沿岸の集落の戸数や産物なども描かれ、海図の情報を補完しています。  http://t.co/pJ1fPMFBuu
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海図と現地情報の対照
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
以下、この海図に記された情報と『水路誌』の記述、そして現地の情報(写真、有志からの提供)を対照していきます。さすがに地図情報の全てを網羅することはできず、特徴的なポイントのみを紹介します。
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
石巻市の万石浦。海図ではこうなっています。西の沿岸に碁盤の目のような模様が描かれていますが、当時ここは、江戸時代から続く仙台藩屈指の塩田でした。(現在は完全に宅地化)  http://t.co/ix0ACzZUGE
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佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
さらに一部を拡大した写真です。浅瀬を利用して、島のようになっている塩田のあったことが分かります。今回の震災で、この跡地がどうなっているのか気になって写真を撮影してきました。  http://t.co/RBLGuGfV9t
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佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
現在の万石浦の様子。塩田の境界部分が残っていることが伺えます。これは塩田跡地としても貴重な遺跡だろうと思います。幸い、先日の津波でも破壊されなかったようです。  http://t.co/DAxxXFBqbz
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佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
ちなみに、『水路誌』では石巻の物産のことを次のように述べています。「穀類、魚類、野菜類、及ビ多少ノ西洋品ヲ添備スルニ足ル。産物ハ烟草、食鹽、椎茸、茶、昆布、牡蠣、海苔、乾鮑、鯣、鮭、鱈、鰹節、魚油、金海鼠、建築石、割石等ナリ」→「西洋品」が調達できたという記載は面白いかも。
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
次に、小竹浜の沖合に浮かんでいる生草島について。海図には「生糞島」(いくそしま)と表記されています。名称が明らかに変えられていることが分かります。まあ、理由は明確でしょうw  http://t.co/RfcLLsmZfz
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佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
現在の生草島の写真。『水路誌』には「尾崎ノ南々東四分一東六鏈ニアル小岩嶼ニシテ草木ナク其周圍二四個ノ露岩を属セリ」とありますが、見て分かる通り、今は島の上に草木が繁茂しています。  http://t.co/zoQD4yqOO9
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佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
他にも、海図のポイントに対応する現在の写真を幾つか紹介しました。(十八成浜、鮎川、金華山、女川、雄勝) 一例だけ。これは十八成浜(くぐなりはま)  http://t.co/Y2bQPBu6tl
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現地情報 その2
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
さて、今回の報告では、単に海図を読み取るだけではなく、できる限り現地にお住まいの方からも情報を集めたいと考え、この海図の写真をご覧いただき、様々な情報をお教え頂きました。以下2つのコメントは、その中からの抜粋。該当ポイントの海図部分も掲出します。
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
「網地島の「アイラブ埼」。現在の「真崎」のことだと思われるが、何人かの網地島出身者に聞いても、「アイラブ埼」という呼び方を知る者はいなかった。これは観光資源にしなければ、と思う。」→どういう変更理由があったかは今以て不明です。  http://t.co/rvIoRyG8Xy
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佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
「前網。地元の人間が冗談半分で「牡鹿半島のマイアミビーチ」と言っているが、海図のローマ字表記が「マイアミ」(Maiami)で驚いた。現地の発音は「マエアミ」よりも「マイアミ」に近いので、「マイアミ」になったのかもしれない。」 http://t.co/GsK9bSXPOG
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佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
このように明治10年代の海図を精査することで、地名の変遷、集落の移動などを幾つか観察できました。今回の事例は牡鹿半島でしたが、更に他の地域(松島・野蒜)の海図についても同様の調査を行いたいです。調査法そのものは極めて単純ですが、意外な情報を満載した海図であることを再確認しました。

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