鑑賞の態度
【創造者 (岩波文庫)】知性と、それにまつわる皮相。そして何にもまして、切実さ。 http://book.akahoshitakuya.com/cmt/5032235
2010-02-20 01:05:08ボルヘスの文章では、それが詩文か小説かに関わらず、大もとになる構造がドカンと提示されてる。その構造というのが、常識的には全く正反対だと思われている概念を一致させるような、非常に知的な皮相を帯びたものになっている。そしてそれは、膨大な知識に裏打ちされた完璧な論理でもって構築される。
2010-02-20 01:12:50論理の難しいところってそれが正しいと論理的手続きを踏んでいるのもかかわらず実感としてその正しさをなかなか理解できないことなんじゃないかなと思う。
2010-02-20 01:16:41作品それ自体があまりに完結・循環しすぎていて、ボルヘスの文章を読むたびに、僕ははぐらかされたような気持ちになる。これって、作者と見つめあうわけでも同じ眺めを共有するでもなく、ぜんぶ反射しちゃう鏡みたいな文章だよね。本を読んでいる時くらい、自分を見たくないと思うのが人情じゃないか?
2010-02-20 01:17:33そういえば@joe_kuga の原稿を読んだときも、なんというボルヘス、身体性のかけらもないと思ったのでそう言ったら、そういう形式で書いたんだもんと言われたので、じゃあどうしようもないし面白くないねって笑顔で言ってあげた。壮絶なdisり愛である。
2010-02-20 01:36:53何が言いたかったというと、論理的に正しくても実感としてそれを理解できないはボルヘスの小説っぽいって話。個人的には実感からスタートしてそれを論理化すればよくね?と思う。どうせそれに至るプロセスを書くのがめんどうなんだろうなあ。
2010-02-20 01:43:31さっきのボルヘスのポストの続き。単なる(と言えないほど壮麗ではあるが)抽象的な構造としてしか見えなかったものが、ほんの些細なこと(たとえばナイーブな言葉や身体性をもった言葉)をきっかけに突如受肉されるような瞬間を、僕は求めていたのかもしれない。だから肩透かしを食った気分になった。
2010-02-20 03:45:06あるいは見逃していただけなのだろうか。円城塔なんかも論理的に閉じた構造を毎回提示してくるように思うのだけれど、僕は彼の作品を読んでいる時にはわりとそういう瞬間を認識ことがある。ここでその"些細なこと"っていうのは例えば、永続的物語装置に対する、著者本人の身体性のようなものになる。
2010-02-20 03:54:13身体性のかけらもない、という言い方というのは、個人的にはなかなかずるい巧妙なものだと思うのだが、なかなかに反論しづらい言でもある。しかし、身体性ねえ。セックス描写でもあればいいのか。
2010-02-20 04:40:28その言は分かるのだが、書かれたものがそれを目指していないとき、それが適切な批判たり得るかというのは、どうも納得がいかない。それは作品の批評ではなく、スタンスの批評で、作品の批評とはなっていないのではないのだろうか。要するに「なぜケータイを使わないのか」みたい。
2010-02-20 04:43:37なんで作品に身体性をなくしているのか、というのは、たぶん読めば瞭然なのに(そしてそのために分かるようないくつかの工夫をしている)、それを無視して「身体性がないからつまらない」というのは、批評としては違っている。単純に自分の尺度でしか物が測れていないだけではないか。
2010-02-20 04:49:03まあ、だいたい条件反射的過ぎるのだよ。適当にひとの小説をつまらないって言っておけばおkとか考えているから、そんな風な、見当外れなことを恥ずかしげもなく言えるのだ。
2010-02-20 04:57:51「確かに芸術は鑑賞者を必要とします――ただしその鑑賞者とは、快楽の装置である作品が生み出される瞬間に、装置の動作を想定するために仮定される鑑賞者であって、現に生きている人間である必要はかならずしもない。」(佐藤亜紀『小説のストラテジー』P.24)を思い出した。
2010-02-20 05:19:16何だろうなあ、この言葉っていうのはすごく理想的で、私もある面では納得できるのだが、やはり私は結局のところ表現者、或いは小説書きでしかなく、芸術家ではないのだろう、ということを感じる。
2010-02-20 05:21:39小説を読まれなくてもいい、ということを言うと、短絡的な人はそれはただの自己満足じゃん、と言うのだろうし、ある面ではそうなのだろうけれど、ここにある鑑賞者によって、小説は完全に読まれるのだから、いったい(実在の)他人に読ませる必要があるのだろうか。
2010-02-20 05:23:30好きだった教授の仰っていたことに、表現は常に神に向かう、というのがあって、当時私はすごく感銘を受けたのを覚えている。「お客様は神様」という大元が、芸事は常に神々を相手にしているという意味ならば、つまりはそういうことなのだろう。
2010-02-20 05:25:16@joe_kuga 古来,物語てのは究極的なところ神への供物で,それが近代小説になって「近代的な教養人」むけとなり,さらに今は「近代的な教養人」が解体してしまったので「おめぇみてぇな馬鹿に読まれたくねぇよ」←いまここ だったりするのではw
2010-02-20 05:30:32まあ、もちろんのこと、これを言うには、鑑賞者の鑑賞に耐えうるものを作らなければならないわけで、粗悪なものの正当化として言っては駄目なのだろう。
2010-02-20 05:32:32