宮城県南の津波に対するイメージを巡って

東日本大震災以後、東北の歴史的な災害記録を追いかけていますが、津波に何度か襲われたはずの宮城県南地域の津波に対するイメージが非常に軽かったことが不思議でした。幾つかの資料にあたって考えてみました。
復興 震災
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『宮城県史』の記載から
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
震災以後、宮城県の津波資料を歴史的に調べている。一つ気になっていたのは、明治以来、宮城県南平野部にも何度か津波高潮被害は起きているのに、「三陸と違って県南の津波被害は軽微」というイメージが定着していたことだった。どうやらこのイメージはいくつかの起源がありそうである。
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
災害工学のような専門分野のような話ではなく、一般にも広く読まれた書物に取り上げられた宮城県南の津波のイメージは、昭和30年代のチリ地震津波の後に刊行された『宮城県史』災害編の記述の影響が大きいのではないかと思う。長いので要約してみると、県南平野部を襲う津波は、→
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
→ 三陸沿岸のリアス式海岸と違って、長大な防潮林と貞山堀のような運河河川が緩衝的な役割を果たして、津波の威力を軽減する。河川を遡上した波が平野に進入して被害をもたらすだけである、ということが記されている。東日本大震災を経験した後にこれを見るとあまりにも低い想定に驚くわけだが。。。
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
一方で、宮城県の場合は津波被害の相対的な評価を考えると、三陸沿岸の被害が甚大すぎて、平野部の被害をいつの間にか過小評価してしまう無意識の作用が有ったともみなせる。これがほとんどリアス式海岸で占められている岩手県との違いだろう。
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
この宮城県史の津波の描き方は、その後、幾つかの郷土史にも転載される。例えば、昭和52年に出された『ゆり上風土記』。宮城県史と全く同じ文面が引用されている。幾ら「予想を上回る災害は起こりうる」と随所に書かれていても、このような「安全過信情報」は住民の心理に影響を及ぼすに違いない。
宮城県沖地震(昭和53年)ではどのようになったか
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
チリ地震津波を経験した宮城県であったが、昭和53年の宮城県沖地震では大規模な津波が発生しなかったため、地盤崩壊、建築物被害の方に社会の注目が集まった。(特に仙台市街)それもあって、県南住民の津波防災意識は更新されないまま過ぎたのではないかと考えている。
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
昭和30年代の宮城県史が歴史家だけではなく、災害工学や防災の専門家の協力を得て書かれていれば、もっと違ったイメージを与えたかもしれない。もちろん、行政が実施したその後の津波対策、シミュレーションは東北大学などの協力も得て進められたが、この半世紀の間の住民の意識を覆せたかどうか。
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
いくら三陸で「津波てんでんこ」のような教訓を浸透させても、以前の宮城県南のような意識が広まっているところでは「それは三陸の話でしょ」と一蹴されるのが精々だろう。これが防災意識を高めるための障害になっている。昨日のチリ地震津波への警戒、あれくらいに徹底させるのはやはり必要だと思う。
歴史記録を残す者の責任として
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
先ほどの『閖上風土記』について言えば、閖上にも昭和三陸津波の被害があり「地震が起きたら津波に注意」と記した石碑まで建立された。(今、日和山の下に転がっている。。。)そのような事があったのに、昭和30~50年代の間に「宮城県南の津波は軽微」という意識が浸透してしまっている。
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
これは歴史を記録し、評価する側の責任というものを考えざるを得ない。ことに災害記録を残す場合、災害直後に「実際に起きたこと」「データ」を残す努力にはエネルギーを注がれるが、ある程度時間が経過した後の評価や防災教育への利用といった場面での記憶の風化や思い込みの影響は深刻だろう。
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
これは教育現場の戦後史となるかもしれないが、どの程度、宮城県南沿岸部の教育機関において、津波まで想定した地震避難訓練を実施していたかは、1つの歴史的証言になるだろう。(少なくとも、私のいた多賀城市では一度も津波という語を聞いた覚えはなかったなあ。。。)三陸との比較ももちろん必要。
ローカル・ナレッジとしての津波伝承
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
地域の気象や動植物の知識など、地元住民が持っている知識をしばしば「ローカル・ナレッジ」と言っているが、津波被害の記憶と伝承も、おそらくそういう物になるだろう。しかし注意点は、いつもいる動植物と違って、津波は頻繁に起こるわけではなく、個別の経験を一般化して理解しがちなこと。
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
先ほど話題にしたような「宮城県南の津波被害は軽微」という一文が、誤ってローカル・ナレッジになってしまったとしたら、これの修整は非常に困難。
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato
色々呟いたが、津波伝承と地域教育という面からまとめると、(1)あやふやなローカル・ナレッジはできる限り是正を、(2)誰がどこに住むか分からない現代社会では、地域性に囚われない一律な防災教育はやはり必要、(3)歴史・科学技術・行政の連携した広報普及活動は必須、かと。

コメント

moriokahiguma @moriokahiguma 2014年4月4日
全体の議論も面白いけれど最後に出てくる移動性の高い社会におけるローカルナレッジの在り方は興味深いです。考えなくては。
きんぎんすなご@岩手県南内陸部 @kinginsunago 2014年4月4日
本当に実感。被災した宮城県在住の叔母の旦那が地元民でチリ地震津波経験者。岩手出身の叔母の不安をよそに大津波が来ても貞山堀があるから大丈夫。と言い切るぐらい本当にそう信じていたらしい…その所為か結果的に避難が遅れ仙台空港側の自宅近くで津波に巻き込まれる寸前で近くの鉄筋な建物へ辛くも逃げ延び命拾いしている
森本うめ @ume_fb 2014年4月4日
不思議です。震災前は宮城県は防災担当教諭を配置するなど、先進だったし。地域の自主防災組織の取り組みも活発だったはず。
津田クモスケ和俊 @kaztsuda 2014年4月4日
きちんと史実を確認する必要はありますが、伊達政宗が貞山堀と防潮林の建設に着手して以来、1677年の延宝房総沖地震を最後に宮城県南部沿岸部では津波による被害は軽微なものしかなかったのでは?、という気もしてきました。
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato 2014年4月4日
ume_fb 一般的な防災の場面でもそうですが、その方面に関心の高い人が持つ情報量と、数十年間同じ情報のまま更新されない大多数の人たちの間のギャップは想像以上だと思います。それが端的に現れたケースかもしれません。
津田クモスケ和俊 @kaztsuda 2014年4月4日
防潮林の建設は1611年の慶長三陸地震の津波被害をきっかけに開始されたと言われてますが、これと貞山堀とたまたま大きな津波が来なかった組み合わせが「神話」の元になったのかな、と。
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato 2014年4月4日
kaztsuda 明治の三陸津波の時だと、坂元のあたりに結構な津波が来ていたり、昭和の時にはゆり上が、という例があるのですが、どうしても過小評価のバイアスがかかったのでしょうかね。人命被害が少ないと軽視されるのと同じように。
手洗い消毒まさみる @masa_mil 2014年4月4日
当日は多賀城の職場にいましたが、一旦避難したグラウンドから高層階に避難する最中もワンセグで気仙沼の被害を見ながら「ここまでは来ないだろう」と思っていました。地元の仙南はなおさらだったでしょう。
名無し岩手県民(手を洗おう) @iwatekenmin01 2014年4月4日
明治、昭和震災での三陸の被害があまりにもすごかったせいで、平野部は大したことが無いというイメージが付いたのはありそうです。
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