‏@yashirosatoruさんの·東北は遅れているのではない。『遅らされた』のだ。

東戊辰戦争敗北後、東北には敗戦地としてのレッテルが貼られ、中央から差別・冷遇されてきた。 東北は遅れているのではない。「遅らされた」のだ。 それが今日の原発問題にも繋がる。 この歴史を学んでも、あなたはまだ原発再稼働に賛成ですか。
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屋代 聡 @yashirosatoru

さて、そこで今日、僕が歴史家として述べるのは、原発と3・11、特に東北の歴史である。 主に河西英通、篠田英朗両氏の著作を参考にしている。あくまで徒然草だから、以下のツイートの詳細は両氏の業績にあたってほしい。

2014-04-26 17:36:58
屋代 聡 @yashirosatoru

今日、僕が言いたいことはたった1つ。 ―なぜ東北(をはじめとする原発立地地域)は危険な原発を受け入れるほど、貧しいのか。

2014-04-26 17:38:56
屋代 聡 @yashirosatoru

実は、この問題の淵源が明治政府の政策にあることは、先行研究より明らかである。 新政府は近代国家建設のために―東京を含む「西南」日本の発展のために―国内植民地とでも言うべき「辺境」を創りだす必要があった。食糧、労働力、エネルギーの供給源を早急に。

2014-04-26 17:39:56
屋代 聡 @yashirosatoru

一方、東北は戊辰戦争の敗戦地として位置づけられた。もちろん同様の事例は九州でも見られた。しかし東北ほど露骨な収奪にさらされた地方はなかったといえる。以下、その歴史を、明治から平成までたどってみよう。

2014-04-26 17:41:03
屋代 聡 @yashirosatoru

戊辰戦争敗北後、東北には敗戦地としてのレッテルが貼られ、そうした「記憶」が醸成された。有名な「白河以北一山百文」という表現は1870年代に流布していった。朝敵東北、敗者・弱者としての東北人という風潮は、明治日本の中央集権化のおりに創造され、かの地に押し付けられてゆく。

2014-04-26 17:41:50
屋代 聡 @yashirosatoru

というのは、1874年の時点で、当時の東北の産業生産高は全国平均とほぼ同じだったのである。 しかし地方経済を支えていた良質の山林が国有林に編入され、農業依存度の大きい東北の経済力は地租改正の影響も大きかった。 ここに東北の転落が始まる。

2014-04-26 17:44:06
屋代 聡 @yashirosatoru

殖産興業とは名ばかりで、全国に200以上新設された紡績所は西日本に偏り、東北ではわずか1カ所。 露骨な差別は金禄処分において、よりはっきりする。仙台藩62万石は尾張藩とほぼ同規模でありながら、前者は後者の、何と10分の1しか金禄公債を得られなかったのである。

2014-04-26 17:45:08
屋代 聡 @yashirosatoru

その後の地域振興用の投資額にも露骨な差別があった。新政府側についた20万石の秋田には160万円が下賜されたが、禄高で同等の盛岡には73万円。会津藩は減封の上、開墾困難な斗南に転封された。仙台藩は2万7000もの士族が帰農を余儀なくされ、仙台の発展は完全に停滞。

2014-04-26 17:46:08
屋代 聡 @yashirosatoru

仙南地域の諸藩の領民は薩長主導の北海道開拓のため集団移住を余儀なくされた。 かように近代日本の出発時に、東北はたいへんなハンデを背負わされたのである。既にここで絶対的な差がついてしまったのだ。

2014-04-26 17:47:00
屋代 聡 @yashirosatoru

実はこの東北の振興に努力しようとした政治家もいた。大久保利通である。彼は1877年に天皇の東北巡幸に随行した後、日本の富強のために東北活用を構想し、東北開発資金を提案していた。そして安積郡内の開発が進められ、人口2000人の村に士族2000戸が移住した(これが現在の郡山市)。

2014-04-26 17:49:08
屋代 聡 @yashirosatoru

その他、青森、宮城の開発にも乗り出していた大久保が長命であれば、東北の運命は変わったかもしれない。しかし1878年、彼は暗殺される。そして1884年、宮城の野蒜築港が台風で大打撃を受け廃港になると、東北は完全に見捨てられ、本格的な振興・殖産計画自体が下火になった。

2014-04-26 17:50:01
屋代 聡 @yashirosatoru

では地方からなぜ改革の機運が高まらないのか。それは維新後に東北各県に着任した県知事が全て薩長を中心とした西南諸藩出身だったからである。彼らにとって東北の知事職は腰掛けに過ぎず、大胆な長期的振興策など「失点」の恐れのあるものは避けて当然であった。

2014-04-26 17:50:56
屋代 聡 @yashirosatoru

日清戦争以降も西日本を中心として工業が勃興してゆくが、東北は旧来の産業構造のままであった。1896年の明治三陸大津波(死者・行方不明者22000人以上)、1931年以降の東北の飢饉は、こうした構造的貧困と無関係ではない。

2014-04-26 17:51:26
屋代 聡 @yashirosatoru

東北には半封建的な寄生地主制が強固に残り、1934年の凶作においては2万以上の自作農が小作農に転落。その苛烈さは全国の小作争議のうち4分の1が東北に集中したことを述べるだけで十分だろう。

2014-04-26 17:52:37
屋代 聡 @yashirosatoru

そこで遅ればせながら、東北を救済する政策は1930年代に採られることになったのだが、今度はそれが東北を国家総動員体制、戦時体制に組み込むことになってしまう。

2014-04-26 17:53:05
屋代 聡 @yashirosatoru

1936年、東北振興策の基幹的措置として設立された2つの会社、「東北興業」「東北振興電力」は軍需工業の基幹となってゆくのである。 …出ましたよ、「電力」。

2014-04-26 17:54:01
屋代 聡 @yashirosatoru

東北振興電力は水力発電を中心として、5年足らずのうちに11発電所(!)を完成させる。日中戦争開戦もあって需要増、営業成績も好調だったが、38年の電力管理法以後、統制が厳しくなる。そして国家総動員法によって日本発送電電株式会社が民間会社の電力を引き継ぐ。

2014-04-26 17:54:32
屋代 聡 @yashirosatoru

東北振興のエネルギーは国防用に変圧されたのである。ただこの振興政策は、かの地の工業発展に一定の成果を残した。工業生産高や従業員数は(新潟を含めて)全国のおよそ1割になった。 しかしこの「成功体験」が戦後の東北のあり方を規定する。

2014-04-26 17:55:15
屋代 聡 @yashirosatoru

戦後、深刻な凶作と大量の復員の問題が重なり、食糧供給が喫緊の課題となる。そこでふたたび東北は(北海道と共に)食糧増産の重点地域とされた。この中央政府の節操のなさを考えてほしい。

2014-04-26 17:55:50
屋代 聡 @yashirosatoru

1950年の国土総合開発法による天然資源の開発が進められ、北上川総合開発特定地域などが設定された。電力、材木、米不足を解消するための東北が志向されたのだ。植民地を全喪失した日本は、国内にその役目を引き受けさせる地方を探していたからである。

2014-04-26 17:56:19
屋代 聡 @yashirosatoru

1960年代までその政策は一定の成果を残し引き継がれた。しかし海外との競争激化とライフスタイルの変化から、今度は減反政策がとられる。農業収入における米の比率激減。兼業農家と出稼ぎが常態化する。農業生産の液状化が進行しつつあった。

2014-04-26 17:57:00
屋代 聡 @yashirosatoru

そこで今度は1969年の新全国総合開発計画が閣議決定され、東北は首都圏の外延地域としての発展が構想される。東北自動車道、東北新幹線、仙台新港、仙台空港ジェット化はその流れで決定したものである。あくまでその発展は東京の補助物として組み立てられた。

2014-04-26 17:59:02
屋代 聡 @yashirosatoru

また福島の只見川電源開発も東北および関東への電力供給を担った。国のエネルギー施策の転換に伴う常磐炭田の閉山も、これに関わることは言うまでもない。

2014-04-26 17:59:51
屋代 聡 @yashirosatoru

こうした結果、東北の工業生産高の全国にしめる割合は1970年の23%から10年で30%に伸びた。喜ばしいことに見える。しかし実態は、1人当たりの現金給与総額をみれば青森で全国平均の63%、宮城でさえ78%だったのだ。 そして東北地方内でも、格差拡大が顕在化し始めた。

2014-04-26 18:01:46
屋代 聡 @yashirosatoru

福島の浜通りなどは「日本のチベット」とさえ言われていたのである。

2014-04-26 18:02:26