主にお菓子っ子さんと地雷魚さんの劉家陣営の話
- jonathanohn
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.@Jiraygyo @Rieg__Goh 諸葛亮の人事手腕は大したものだと思いますよ。劉備が生きていた頃から人事に関する相談に乗っていただけのことはあります
2014-05-11 01:06:10@sweets_street @Rieg__Goh 自分の死後も素早く鎮圧された魏延以外は目立った反乱もなかったですしなー。あと楊儀が「これでまた取り立てられる望みがなくなった」というのも、公平性に信頼おいていたからなんでしょうねえ。
2014-05-11 01:09:03.@Jiraygyo @Rieg__Goh 廖立や李厳が「復帰の望みは絶たれた」と言ったのには、諸葛亮への信頼もありますが、閲歴の問題もあるでしょうね。劉備の代からの重臣だった彼らと、新政権首班の蔣琬では貫目が違いすぎます。蔣琬の権威を確立する必要上、排除せざるを得ないはずです
2014-05-11 01:13:03@sweets_street @Rieg__Goh 李厳だった、すまぬ、あやふやで言ってた。なるほど、蔣琬が首班になるには確かに李厳や廖立、特に李厳は目の上のたんこぶすぎますなー。李厳なんて劉璋時代からの縦深ですものね。
2014-05-11 01:15:00.@Jiraygyo @Rieg__Goh 蔣琬が三百~四百石の県長に過ぎなかった頃、廖立と李厳は二千石の太守でした。そんな長老が蔣琬政権に参加してきたら、どっちが首班かわからなくなっちゃいますよね
2014-05-11 01:17:37@sweets_street @Rieg__Goh 李厳については諸葛亮さえ舐めてたフシあるものねえ。そう思うと諸葛亮は死後も見据えて自分の体制を築いていたと、結果的にそうなってますよなー。軍事のうるさ型の魏延も死後、素早く切ってますし
2014-05-11 01:20:29@sweets_street @Jiraygyo @Rieg__Goh 実際境遇的には李厳に近い人たちがたくさん蔣琬の下にいたんだろうなあ
2014-05-11 01:20:32.@Golden_hamster @Jiraygyo @Rieg__Goh 世代交代の犠牲になって棚上げされるベテランとか、現代的な話ですよね
2014-05-11 01:21:51@sweets_street @Golden_hamster @Rieg__Goh すごくよくある話しすぎて亡く。ひっそり史書編纂室に贈られるんや……
2014-05-11 01:22:32.@Jiraygyo @Rieg__Goh 早めに巨大与党を形成しておいた諸葛亮の先見の明が光りますね。中堅若手は全員諸葛亮派だから、長老が政局に介入できる余地がないわけです
2014-05-11 01:24:02どっからそんな政治芸術学んだんや・・・ RT @sweets_street: .@Jiraygyo @Rieg__Goh 早めに巨大与党を形成しておいた諸葛亮の先見の明が光りますね。中堅若手は全員諸葛亮派だから、長老が政局に介入できる余地がないわけです
2014-05-11 01:25:54.@Jiraygyo @Rieg__Goh めぼしい中堅・若手官僚をことごとく自分の丞相府、魏王府の属官に取り立てた曹操の前例に倣ったんじゃないでしょうか。これらの集団は曹操死後に曹丕の与党となる集団です
2014-05-11 01:28:40@sweets_street @Rieg__Goh 政治的にも曹操の研究を欠かさなかったのか。軍事的には曹操の弟子というぐらい曹操研究していたフシが見えるけど。
2014-05-11 01:30:19.@Jiraygyo 儒家、法家という区分はこの時代では無意味かもしれません。本来の法家は徳治否定主義です。当時の統治思想は儒学の一人勝ちで、儒者の中に緩やかな統治を良しとする調整型と、厳格な統治を良しとする実務型が混在していた印象です
2014-05-11 01:39:12.@Jiraygyo 教義というよりは、ルールに対する態度でしょうね。儒教の経典の中には「あまり厳しく締め付けるな」「悪は厳しく取り締まれ」のどっちも書いているから、後は本人のスタイル次第でしょう
2014-05-11 01:43:11